十も歳下だと喧嘩にもならず、何をしようが可愛いもので兄と言うより親の心地である。
それが下の弟、昌幸への思いであった。
昌幸はお館様に目をかけられ奥近習として躑躅ヶ崎館に居り、将来を約束されていた。
どんなに離れていても、例え真田でなくなろうとも、昌幸はわしの弟である。
何かあればわしを頼れと、絶対にわしが助けてやるからと、常々に言い聞かせていたからか、遠慮しがちな昌幸であろうともわしを頼ってくれるようになった。
初陣も終え、今は戦も落ち着き、わしは躑躅ヶ崎館に程近くの自分の屋敷前に来ていた。
わしとは入れ替わりに父上が上田に帰られるのをお見送りしていると、向こうから此方に向かって歩いてきている者の姿があった。
遠目にでも解る特徴的な白黒の髪。下の弟の昌幸である。
出立せんとする父上を止めて昌幸を待った。
走りたくとも走れないのか、昌幸は速歩で我等の元に歩み寄る。
平静を装っているようだが、どうも顔色が良くない。
「父上」
「昌幸。見送りに来てくれたのか」
「はい。信綱兄上、久方振りです」
「おう、昌幸」
「お止めして申し訳ございません。父上と信綱兄上のお顔が一目見たいと思いまして」
「なれば愛でておかねば。どれ、顔を見せてみよ」
「はい」
「ん?どうした。具合が悪いのか」
感情を顕にしない昌幸は、皆にとっては解り難い。
皆には誤魔化せようが、父上とわしには解る。
昌幸の頬に触れ額に触れ、父上は眉を顰めた。
遠慮がちに俯く昌幸に対して父上は容赦なく、くしゃくしゃに抱き締めている。
「父上に御心配を掛ける程ではございませぬ」
「む…。わしは上田に戻るが、くれぐれも無理はしてくれるなよ」
「は…」
「信綱、昌幸を見ておれ。後は任せた」
「は、道中お気を付けて」
父上は馬上から昌幸とわしの頭を撫でて笑っていた。
どれだけ図体が大きくなろうとも、父上にとってはわしであろうと子供でしかない。
昌幸と二人、父上の出立を見送り昌幸に向き直る。
まじまじと見下ろすと、昌幸の瞳が微睡んでいた。
どれと少し屈んで昌幸に額を合わせると、父上が眉を顰めた理由が解った。
「あっ、あにうえ」
「ふむ」
額を合わせると、昌幸はどうにも熱っぽく足元がふらついている。
その体調だとて、父上とわしの顔を見に来てくれたのかと思うと愛おしさしかない。
目が合うと、昌幸は照れ臭そうに額を離して目を逸らした。
「風邪でもひいたか?」
「疲れているだけです。本日はお暇を頂戴しております故、部屋で休みます。しからば…」
「待て。このまま館の相部屋に帰る気か。誰かお前を看る者は居るのだろうな」
「私が居らず人手が足りませぬ所を、更に御迷惑をお掛けする訳には参りませぬ」
「…ふむ。お館様は何処か」
「奥座敷にて執務中かと」
「方々は何処か」
「勝頼様はお出になられました。馬場様、山縣様、高坂様は躑躅ヶ崎館に在られます。他の方々は各屋敷に居られるかと」
「では、お館様にお目通り願おう。それか一筆、わしが書けば良いかな」
「信綱兄上、あの…?」
「わしに任せておけ。なぁ、源五郎」
「っ、源五郎ではございませぬ」
幼名の源五郎と呼ぶと昌幸は顔を真っ赤にする。
それが可愛らしくて頭を撫でてやると、更に眉を寄せてむくれていた。
いくら歳を重ねたとて、小さな可愛い弟には変わりない。
昌幸に案内してもらい、お館様の居られる奥座敷へ通してもらった。
お館様に形式的な御挨拶を終わらせ、それとなく昌幸の事を話してみた。
昌幸は下がり、戸口に控えている。
「方々に弟の御心配をお掛けするのも痛み入る。わしの屋敷にて、昌幸を預かりたくお願い申し上げます」
「おこと。さすが、お兄ちゃんじゃね」
「と申しますと」
「昌幸の事は知っとったよ。あの部屋じゃ出入りが多いから休まらんじゃろう。勝頼の部屋で休めと言うたのじゃが、昌幸が遠慮して聞かなくてね」
「…勝頼様の、ですか?」
「おことが着いたら昌幸を任せようかと思っていてね。良い時に来てくれたね信綱。昌幸を頼むね。昌幸もその方が気が休まろう」
「畏まりました」
「勝頼にはわしから伝えておくよ」
昌幸と勝頼様は確かに懇意ではあるが、勝頼様の寝室に入る許可まで得ていたのかと思うと武田家の事。それとなく察してしまう。
あの二人が友として懇意ではあるのは傍目にも分かり易かったが、勝頼様を見つめる昌幸の眼差しは懇意だけではなかろう。
友だとは言うが、主の息子自ら幾山も越えて家臣に会いに来るだろうか。
当人達から聞いた事はないが、二人が恋仲である事はそれとなく察していた。
お館様が口に出して気にされるということは、お館様も存じておられるのだろう。
つまり察するも何も、事実なのだという確証を得てしまった。
「今宵の酒宴は昌幸は呼ばないからね。信綱も好きにおし」
「よろしいのですか」
「可愛い弟なんじゃろ。此処では昌幸は信綱や昌輝くらいにしか甘えられんじゃろうて。昌幸は少し気を緩めるべきじゃな」
「畏まりました。それではお言葉に甘えまして昌幸を預からせて頂きます」
「うむ。ああ、それと」
「はい」
「勝頼が来たら、許してやってくれんかね。勝頼にはわしがお使いを頼んだものだから一寸出とる。昌幸を誰よりも心配していたからね」
「は、心得ました」
お館様に頭を下げて戸に手を掛けると、昌幸が開けてくれた。
凡そ聞いていたのだろう。困り顔で見上げた後にお館様の方を見て頭を下げた。
「お館様」
「聞いてたね、昌幸」
「は…」
「二、三日はお兄ちゃん達に甘えておいで」
「されど、お館様」
「此方は大丈夫だからね昌幸。信綱、頼んだよ」
「は。お気遣い痛み入りますお館様。しからば御免」
狼狽する昌幸の首根っこを掴むように連れ出して戸を閉めた。
昌幸をしゃんと立たせて肩を支えると、わしの裾を摘んで顔を上げた。
未だ遠慮しているらしく、眉を下げて困っていた。
何を遠慮しているのだと頬を撫でてやると、やはり顔すら熱らせている。
熱が上がっているではないか。
昌幸の額を撫でると、目を細めてわしを見上げる。
「…本当に、よろしいのですか」
「未だ愚図愚図言うておるのか。家族だろう。お館様が仰るように、たまには素直に甘えて欲しいものだな」
「されど、屋敷に御迷惑が掛からないでしょうか」
「昌幸」
「は、はい」
「お兄ちゃんの言う事が聞けぬのか?」
「っ、信綱兄上」
「はは、お館様がそう言うからついな」
着ていた上着を昌幸の肩に掛けて頭を撫でた。
肩を叩いて屋敷に向かうよう促すと、漸く昌幸はこくりと首を縦に振ってくれた。
小さな背中を見送り、後は屋敷の者に任せて、今一度方々の挨拶回りに躑躅ヶ崎館に向かう。
方々にご挨拶をしていると昌輝を見掛けたので屋敷に戻るよう言伝た。
昌幸の事を話すと二つ返事で了承し、色々と準備をする為に昌輝は先に屋敷に戻った。
信房様、昌景様、昌信様に向き直り頭を下げる。
「変わりないか、信綱」
「は、おかげをもちまして」
「幸隆によろしく伝えてくれ。昌輝にもな」
「はい。此方こそ、弟が世話になっております」
「弟と言えばもう一人、いつもお前が来ると横におる昌幸が居らぬな」
「今はわしの屋敷に居ります」
「そうか。昌幸によろしく伝えてくれ」
「はい。今、昌輝も向かわせました故」
「真田の兄弟水入らずという事か。せいぜい甘やかせてやれよ信綱」
「はい。勿論です」
「おぬしらが傍にいるなら、あの気難しい昌幸も安堵するだろうて」
「ふ…。わしの膝の上で飯を食べていたあの子供が、大きくなったものだな」
「昌景様、その節は…」
「良い良い。今は懐かしき思い出だ」
「我等も歳をとったという事ですな」
「ではな、信綱よ」
「は、しからば」
御三方と談笑し、これで凡その挨拶回りは終わっただろう。
どうやら昌輝も昌幸も方々には世話になり、目をかけられているようだ。
兄として挨拶は済ませて、それとなく酒宴が開かれる事も小耳に挟みつつどうするかはわし自身に委ねられた。
方々とて、兄弟水入らずの時を優先して下さったのだろう。
武田家中は本当に良い人達に恵まれている。
百足衆である昌輝は奥近習である昌幸に頻繁に会えるだろうが、先方衆のわしと昌幸が顔を合わせる事は少ない。
軍議にて隣同士に座る事はあれど、それが済めば一言二言言葉を交わしはすれど、なかなかゆっくりは話せないでいた。
幼き頃に人質にされ、昌幸と離れて暮らすこと早余年。
あれから成長したとて、わしの中では小さな弟、源五郎のままである。
名を変えたとて、昌幸は源五郎のままである。
「帰ったぞ」
「旦那様、お帰りなさいまし」
「うむ。昌輝と昌幸は居るか」
「御二方とも、旦那様の部屋にてお待ちです」
「わしの部屋に?そうか、行ってみよう」
久方振りに甲府での家臣らに出迎えられ、屋敷に着き背筋を伸ばした。
長距離の移動と、方々の顔合わせに肩肘を張っていたものだから少々疲れた。
わしの部屋にいるらしい 弟達に会うべく着物を着替えて部屋の襖を開けると、昌輝が縁側に向かって座っていた。
「昌輝」
「兄上、お帰りなさいませ。ですが、どうかお静かに」
「昌幸はどうした」
「此処に。昌幸に捕まってしまいましてな」
「ふ、疲れていたのだな」
見ればわしの貸した上着に包まり、昌輝の膝に頭を乗せて昌幸は寝息を立てていた。
布団に寝かせてやろうと昌輝が昌幸を探していたところ、部屋の片隅でわしの上着に丸まっていたらしい。
怒られると思ったのか、昌幸は至極申し訳なさそうにしていたようだが昌輝は怒らず、寧ろ早く休めと昌幸を甘やかしていたようだ。
昌輝とて、昌幸の兄である。
「兄上、代わって下さらんか。痺れ申した」
「おう。此処なら布団で寝かせてやりたいな」
「はい。熱は下がっております故」
「そうか。疲れていたのだな」
暫くそうしていたのか、昌輝の脚が限界らしい。
昌幸を抱き起こして胸に埋めると、無意識に擦り寄る昌幸に微笑む。
わしが来たのだと解ったのだろうか。
「昌輝。お前も今宵は此処に居れるか」
「お呼びがあれば館に参上仕りますが、昌幸が来ると聞き、今宵は屋敷に居るつもりです」
「そうか。今宵は兄弟で川の字に寝たいと思ってな」
「それは良いですな。昌幸も喜ぶ。皆には見せませぬが此奴は存外、寂しがりやの甘えたでして」
「はは、昌幸は源五郎の時と変わらぬか」
「兄上が居るからでしょう。兄上の上着を離しませぬ。わしより兄上に懐いておりますからな」
「何を言うか。お前が百足衆になった折に、昌輝兄上も甲府に来られるのですかと、嬉しそうに笑っておったぞ」
「昌幸め。何故其れをわしには見せなんだ」
昌輝は笑って、此奴めと昌幸の頭を撫でた。
頬に手を伸ばせば自ら手に擦り寄ってくる。
昌幸は無自覚であろうが、其れが兄にとってどんなに喜ばしく嬉しい事か知る由もない。
昌幸は我等の可愛い弟だ。
夕餉や風呂、着物の用意などをしてくると昌輝は脚を伸ばしながら部屋を出て行った。
部屋には昌幸が寒くないようにと、火鉢が置かれていた。
昌輝は大雑把だが、よく気が付く男だ。
皆まで言わずとも先んじて察して行動してくれる。そして何よりも家族思いである。
わしも疲れたなと思い、昌幸を胸に抱いて火鉢の前に横になった。
昌幸が丸まり、わしの腕を枕にすうすうと寝息を立てている。
眉間に刻まれた皺に日々の苦労を感じざるを得ないが、今は大分和らいでいる。
「頑張っているな、昌幸。ちゃあんと見ているからな」
「ん…」
よしよしと頭を撫でると、昌幸がふわりと笑った。
良い夢でも見ているのだろうか。
布団に寝かせてやりたいが、昌幸が温かく眠気に勝てそうにない。
夕餉までひと眠りをしておこうと、昌幸を胸に抱いて目を閉じた。
肌寒さにひとつ伸びをして目を覚ますと、昌幸も起きていた。
目は開けていたが、わしの腕枕から離れる気はなかったようだ。
見れば掛布がかけられており、火鉢にも炭が追加されている。恐らくは昌輝であろう。
身動ぎに気付いて此方を向いた昌幸の頬を撫でてやると、目を細めてわしを見上げていた。
「昌幸」
「お疲れでしょう。信綱兄上」
「ああ。少しな。ゆっくり眠れたか、昌幸」
「はい。感謝致します。兄上達のお陰で安眠出来ました。このようにゆっくり眠るなど久方振りで」
「ふむ。躑躅ヶ崎館では気が張って眠れぬか?」
「…いえ、その、眠れる場所もある事はあるのですが、その…」
「ほう。それならば何よりだ」
その先を昌幸は口ごもった。何がしか言いたくない事があるのだろう。
何となく察してはいるが詮索はせず、昌幸を抱き起こした。
袖をつんと引かれて、昌幸がわしを見上げている。
どうした?と頬を撫でてやれば恐る恐る口を開いた。
「信綱兄上になら言えます」
「うん。何だ?」
「…勝頼様を、勝頼様をお慕いしております。勝頼様と、こ、恋仲に、あります」
「…そうか」
昌幸の瞳が揺れている。
恐らくは相当覚悟してわしに伝えてくれたのだろう。
躑躅ヶ崎館で昌幸が安らげる場所というのは、そういう事であろう。
お館様の言葉通りではあったが、やはり直に聞くと衝撃が凄い。
昌幸は昔から良い子であろうとする子だった。
故にわしに隠し事をしたくなかったのだろう。
よく言ってくれたなと撫でてやると、昌幸が目を閉じて手に甘えてきた。
「…昌輝兄上も知っています。聞いた上で、何も言わずにいてくれました」
「そうか。知己である事は知っていたが、そうか」
「身分不相応だと、蔑まれないのですか」
「勝頼様も昌幸を好いていよう。幼き頃から何かとお前を庇って護ろうとしてくれたのは存じている」
「はい…」
「勝頼様の元で、昌幸が昌幸で居られるのならその方が良い」
「っ」
「お前はわしの可愛い弟だ。お前が幸せならば、わしは何も言わないよ」
「信綱兄上」
「身分の低い人質が武田の家で暮らすという事はどういう事か、覚悟もしていた。勝頼様の傍で昌幸が幸せなら、わしは応援するよ」
「…信綱兄上、感謝致します…」
「いやいや。して昌幸、父上には…」
「言える訳がないです…」
「そうだな、うむ。秘密にしておこう」
人差し指を唇の前に立てて昌幸と顔を合わせた。
父上は子煩悩である。
ましてや昌幸など、人質にしてしまったという負い目があるのか、特段に可愛がっていらっしゃった。
躑躅ヶ崎館に赴く度に源五郎はどうしているかと、わざわざ時間を作り会いに行っていた程だ。
二人は恋仲なのだろう。
昌幸の様子を見れば、弄ばれ捌け口にされているような雰囲気はない。
傍目から見て勝頼様は激情を秘めておられるが、基本的にはお優しい人だ。
さぞや、大切にしてくれているのだろう。
勝頼様のお手付きと聞けば、父上は卒倒しそうである。
事実、わしも中々の重傷である。
何処まで進んでいるのかという事は聞かないでおこうと心に決めて、昌幸と共に部屋を出た。
昌輝が風呂の支度をしようかとしていた所を呼び止めた。
近くの湯村に温泉がある。
そこに三人で行こうと誘うと昌輝は快諾してくれたが、昌幸は下を向いてしまった。
「すまぬ。昌幸は嫌だったか?」
「あ、あの、その、信綱兄上と昌輝兄上しか居られぬのなら…」
「何を恥ずかしがっているのだ昌幸」
「ふむ。解った。人払いをして貰おうか」
「相変わらず昌幸には甘いですな兄上」
男同士であるのに、肌を人目に見せたがらない。
先の告白と関係があるのだろう。
昌輝と目を合わせて、湯村に行く支度をして三人で外に出た。
日が暮れかけている。
湯村までの道中、わしを真ん中にして昌輝と昌幸に代わる代わる話しかけられていた。
弟達は変わらず元気そうで何よりである。
兄弟で話していれば、徒歩での移動も短く感じられた。
世話になる湯屋では、既に人払いが済んでいた。
どうやら昌輝の馴染みらしく、わしの顔と昌幸の顔を見て頭を下げていた。
世話を掛けてすまぬなと頭を下げると、お侍様が頭を下げないで下さいと慌てられてしまった。
「信綱兄上は、変わりませんね」
「そうか。歳は取ったぞ」
「民であろうとも、身分関係なく接せられる」
「同じ人である。世話になるなら身分関係なく、頭も下げるさ」
「そういうところです。信綱兄上は…本当に…」
「頭を下げるくらいで死にはしないからな」
「昌輝兄上も相変わらずのようで」
着物を早々に脱ぐと、昌幸が人払いをした理由が解った。
昌幸の首筋に幾つか残る口吸いの痕。
そういう事かと頭を抱えつつ、昌幸の首元に手拭いを置いた。
昌輝も気付いていたが、何も言わずに支度をしていた。昌輝も存外優しい。
今朝の様子は事後であったからなのかと思うと、昌幸を見れなくなってしまう。
何にせよ疲れているのだろう。今は何も言わずに労わってやるのが良かろうと体を流してから湯に浸かった。
昌輝も続き、湯に入る。昌幸は長髪故に時間が掛かっているようだ。
手拭いを顔に置き、天を見上げた。
不意に昌輝に肩を小突かれ、手拭いを下ろした。昌幸が湯に入ってきたのだ。
傍においでと手招くと、昌幸はしきりに自分の胸を気にしていた。
「どうした?」
「胸が腫れてしまって…」
「虫にでも刺されたか?」
「あ、う」
「やめてやれ、昌輝」
昌輝がむんずと胸を鷲掴みにしたものだから、昌幸は思わず声が漏れてしまったのだろう。
見れば胸が痛いと言うがそれは、女子のような乳房の事ではなく、乳首の話であるようだ。ぷっくりと腫れているようだが、余り見ないように目を逸らした。
一先ず触ってやるなと昌輝を宥めて、昌幸もあまり触るなと手を退けさせた。
どう見ても事後である昌幸をまじまじと見てしまうのは申し訳なく、目を逸らした。
わしはそういう目で昌幸を見た事はないが、確実に昌幸はもう源五郎の頃のような子供ではなくなっていた。
わしが一方的に子供扱いしていたのだと、反省するべきところである。
昌輝が鍛錬の話などをして昌幸と胸筋の大きさを比べていたが、だから触ってやるなと昌輝の手を退けさせた。
昌幸自身はきょとんとしていた為、さぞや勝頼様も苦労されているのやもしれぬ。
こうなったのも勝頼様のせいなのだろうが、今は置いておこう。
昌幸の項にひと房、白黒の髪がすくい損ねて乱れていた。
そのひと房をすくい、昌幸を見下ろす。
白黒分かれた髪色が珍しく、昌幸は奇異の目で見られる事が多かった。
昌幸も其れは自覚しており、何処か諦めているような節さえあり、己を嫌っていた。
父上もわしも昌輝も、人とは違う綺麗な髪だと何度も何度も言い聞かせ、漸く伸ばしてくれた髪だ。
見ればきちんと手入れもしているらしく、肌触りが良い。
昌幸自身が昌幸を労わっている事が知れて良かった。
「綺麗だな、昌幸」
「信綱兄上?」
「勝頼様も、さぞや好いておろう」
「…はい」
「兄上、知っていたのですか?」
「昌幸が話してくれた」
昌輝はわしが知っているとは思わなかったのだろう。
昌幸の頬を撫でつつ、昌輝の肩を叩いた。
昌輝は昌幸に耳打ちで何やら話しているが、丸聞こえである。
「昌幸、兄上には秘密にすると言ってなかったか?」
「信綱兄上のお顔を見たら、気が変わりました」
「わしは昌幸が幸せならそれでいいさ」
「信綱兄上は相変わらず昌幸に甘いですな。それに昌幸も、相変わらず兄上が大好きだな」
「昌輝兄上の事もお慕いしておりますよ」
「おう。わしも愛しているよ」
「ま、昌輝兄上」
「おぬしもさらりと言うようになったな」
「あれやそれと言葉を選んで話すのは面倒でしてな」
「む…」
「別にお前の事を貶している訳ではないぞ、昌幸」
むすっと昌幸が眉を顰めた為に、昌輝が昌幸の額を指で小突いた。
縁に肘付き、変わらぬ仲が良い様子の弟達を見つめて笑う。
湯冷めせぬよう、湯上りの姿でひと息ついていると、昌幸がわしの着付けの世話を焼いた。
よく躾られているようで、わしや昌輝が己で支度をするよりも着付けが上手い。
昌輝がそれを見てわしもやってくれと昌幸に強請っていた。
昌幸はわしが着せてやろうかと言うも、もう子供ではないので、とさっさと自分で着付けてしまった為に少し寂しい。
湯屋に礼を言い、夜空の下を歩いた。
昌幸は此方で育ったからか、寒がりである。
昌幸が寒くないように、首筋が隠れるようにと、わしの毛皮の上着を着せて帰路に着いた。
昌輝も首巻きを昌幸に貸したのか、昌幸ひとりがもこもこしていた。
今度は昌幸を真ん中にして、三人で歩いた。
「そうだ昌幸。お館様が昌幸にと薬をくれたぞ」
「薬?」
「痛いところがあったら塗っておけとな。屋敷に帰ったら渡そう」
「畏まりました。ありがとうございます昌輝兄上」
「うむ。夕餉は何だろうな兄上」
「道中に狩った猪を手土産にしたから、今宵は鍋だな」
「さすが、信綱兄上でございます」
昌幸はお館様にも特段に目をかけられているようだ。
それが武田家中で要らぬ妬みや反感を買わなければいいがと心配しつつ、何かあればわしが助けようと思いもした。
だが、今の昌幸には勝頼様も居る。
故に、昌幸は大丈夫であろう。
逐一心配してしまうのはわしの悪い癖である。
屋敷に戻り皆で猪鍋を囲み、兄弟水入らずに過ごした。
顔に出しているつもりはなかったが、やはり疲れが溜まっているのか直ぐに欠伸が出る。
わしに釣られて昌輝と昌幸も欠伸をしたので、もう寝ようと寝所に向かい、三つ横に並べて敷かれた布団に笑う。
「信綱兄上、昌輝兄上、奥にどうぞ」
「いや待て。昌輝は寝相が悪い。お前が潰されてしまう。わしが真ん中になろう」
「信綱兄上、私はそこまで小さくないのですが」
「いやいや、小さいではないか」
「む、昌輝兄上」
「ほら、お館様からの薬だ。痛むなら塗っておけよ」
「…はい。ありがとうございます」
「では、兄上。お言葉に甘えまして上座を失礼します」
「それでは信綱兄上が」
「構わんよ昌幸。たかが布団だ」
昌輝が昌幸に蛤の入れ物を渡して頭を撫でた。
それが件の薬とやらだろう。どうやら塗り薬らしい。
一番奥ならば昌輝が転がっても、わしが居れば昌幸は潰れんだろう。
持ち場が決まったところで、昌輝は横になると早々に寝付き、わしも横になった。
昌幸が髪紐を解きつつ、わしに背を向けて何かしている。
薬を塗っているのか、嗅ぎなれぬ匂いが鼻についた。
「…これは…」
「どうした、昌幸」
「信綱兄上は、嗅がないで下さい」
「うん?」
「…お館様、お恨み申し上げます」
「何だ、どうした?」
「これは、薬では…」
「まさか毒ではあるまいな」
「毒ではありませぬ。されとて薬…とは…」
「昌幸?」
胸を直ぐに拭ったようだが、昌幸は胸をおさえて蹲ってしまった。
昌幸の傍に歩み寄り背中を撫でると、びくっと震えて胸を隠している。
「のぶつな、あにうえ」
とろんと蕩けた瞳をして、昌幸が敷布に仰向けに寝転がる。
呼吸が浅く胸で息をしている様子に苦しそうだと、首元を緩めると昌幸の肌が酷く熱い。
本当に急にどうしたのだと頬に触れると、その手にすら弾くつく様子を見せる。
あからさまにあの薬を塗ってから昌幸の様子がおかしい。
お館様が昌幸にと渡した塗り薬を手に取り嗅ぐ。
随分と甘ったるい匂いがしている。
わしにはこれが何だか分かりかねるが、昌幸がこうなったのはこれが原因なのだろう。
ふと襖の前に人の気配がして身を起こした。
昌幸に掛布をかけて胸に埋める。
「旦那様。夜分お休みの所、失礼します。勝頼様がお忍びにて参られました」
「何、勝頼様が」
「かつよりさま」
「今、参るとお伝えしてくれ」
「それが」
「夜分すまぬ信綱。火急の案件にて、上がらせて貰った」
「これは、勝頼様。寝間着姿で失礼致す。何事ですか」
「かつよりさま…?」
「昌幸、此処にいたか。…昌幸?」
「…お館様が、これを私に…」
「ああ、父上、やってくれたな…。間に合わなかったか」
息を切らせた様子の勝頼様が真っ先に昌幸の元に向かい、昌幸を胸に抱き寄せた。
火急の案件とは昌幸の事なのであろう。
昌輝を起こさぬよう、昌幸を連れて奥の部屋に勝頼様を招いた。
勝頼様には夜分の突然の来訪を深く詫びられた後、事の次第をお聞きした。
どうやらお館様が昌幸にと渡した薬は、薬は薬でも媚薬であったらしい。
直に肌に塗らない限りは効果が現れない為に、匂いを嗅いだくらいではわしには効かなかった。
昌幸が使わぬよう慌てて止めに来て下さったのだろう。
「先程甲府に着いてな。父上に其れを聞いて走って来た。昌幸なら父上の好意を断れぬ。それに昌幸はこういう事には疎くてな…。父上にはきつく言い聞かせておく」
「では、勝頼様は昌幸を思い駆け付けて下さったのか」
「夜分、誠にすまぬ」
止めに来たのだが間に合わなかったと勝頼様は項垂れていた。
昌幸を突然抱き締めた事も、勝頼様から恋仲である事を説明されて、昌幸を深く愛しているとも宣言してくれた。
わしの腕の中にいる昌幸が敷布に顔を隠していたが、頬は赤く染まっていた。
勝頼様は昌幸を深く愛し、身分など省みずとても大切にしてくれていた。
されば兄として、今の弟に出来る事は少ない。
「誰そある」
「此処に」
「…、奥に部屋を用意してくれぬか」
「は」
「信綱?」
「信綱兄上…?」
「お疲れでしょう。勝頼様」
間もなく用意された部屋に勝頼様を通し、昌幸を横抱きにしてその部屋に下ろした。
不安気な瞳で見上げる昌幸の頬を撫でて、勝頼様に向き直る。
勝頼様が駆け付けたのは、もう一つ理由があるように思えた。
「…わしや昌輝が、昌幸に手を出すと思われましたか」
「…思わなかった、と言えば嘘になる」
「昌幸は弟です。勝頼様の真心はよく解り申した」
「信綱兄上?」
「昌幸をお付け致す。此方でお休み下さいませ」
「あ、あの」
「されとて勝頼様。昌幸を傷付けるような事があれば、この信綱とて許しませぬ故。しからば御免」
「信綱あにうえ」
半ば勝頼様に昌幸を押し付けるようにしてしまった。
昌幸を腕に抱いて解った。昌幸の身は熱り、媚薬に狂わされておる。
あの熱を冷ますには、勝頼様でなければならぬ。
今この場で邪魔なのはわしである。
早々に退散をしようと戸に手をかけた時、昌幸がわしの裾を握り締めて離さなかった。
離すように手に触れても、昌幸はふるふると首を横に振って目尻に涙を溜めていた。
「ま、昌幸」
「いかないで、あにうえ」
「昌幸、されど」
「信綱あにうえ」
今の昌幸は、子供の頃の源五郎の時のようだ。
昌幸が人質となり、門前で別れたあの日を思い出してしまった。
普段我儘を言わぬ源五郎が唯一、我儘を言った。
置いていかないでといつまでもずっと泣いていたあの日からもう随分と経つのに、今の昌幸はあの日の源五郎である。
「信綱。昌幸は信綱が来るのを楽しみにしていた。それが本心故に離れたくないのだろう」
「されど、このままでは昌幸が辛いでしょう」
「私はな、昌幸を抱きたいと思っている。このままでは昌幸が辛い」
「っ、なればこそ、わしは」
「昌幸を抱き留めていてくれるか、信綱」
「勝頼様?」
「見たくなければ、目を背けよ」
「なっ」
昌幸の背を胸に預かり、その場に尻餅を着いた。
昌幸を胸に抱き留めていると、勝頼様が昌幸に屈み、口付けていた。
わしの裾を握り締めている昌幸だったが、勝頼様に口付けられて力が抜けたらしい。
逃げるなら今だと思うも、昌幸から目が離せない。
胸元がはだけて、腫れた乳首が覗いている。
見てはならぬと思うものの目が離せず、勝頼様が昌幸の胸を吸い、股にも触れていた。
なるべく肌は見せぬようにしているのか、着物は脱がさず昌幸に触れているらしい。
昌幸は口元に手をやり、小さく声を漏らしつつ、わしの胸元に顔を埋めていた。
「のぶつな、あに、うえ」
「わしに見られて良いのか、昌幸」
「はずかしい、です…」
「なら、ほら、手を」
「ぁっ、う…っ!」
「勝頼様」
「信綱に見られて興奮しているのか、昌幸」
「勝頼様、わしは」
「解っている。私は昌幸を愛しているし、信綱とて昌幸を思っている。されど、それは似て異なるものだ」
「かつより、さま…、はや、く…」
「っ」
「流石に信綱でも、このような姿の昌幸は見たことがなかろう」
「見るつもりもありませんでした」
今の昌幸はただひたすらに艶っぽく、胸は腫れて下からは卑猥な水音が聞こえていた。
勝頼様とて、四郎様と呼ばれていた幼き頃から交流のある御方だ。
あの源五郎と、四郎様が抱き合っている。
この如何ともせぬ事実を何とか受け止め、昌幸の手を握る。
昌幸が勝頼様を蕩けた瞳で見つめていた。
その眼差しは慈しみに満ちていて、心から愛しているのだと一目で解るものだった。
もう昌幸は、身も心も勝頼様のものなのだろう。
昌幸は勝頼様を愛していた。
勝頼様に触れられ続けて力が抜けたのか、わしの裾を掴む昌幸の手から力が抜けた。
これが最後の機であろう。
さすがに弟の濡れ場を最後まで見る訳にはいかない。
隙を見て上着を脱ぎ昌幸の肩に掛けると、昌幸は惚けた瞳で私を見上げていた。
「信綱あにうえ」
「おやすみ、昌幸」
昌幸の額に唇を寄せ頭を撫でると、勝頼様に頭を下げた。
勝頼様は少々むっとした表情を為されていたが、今は兎に角この場を離れる事だ。
足早に寝所に戻ると、その物音で昌輝が目を覚ましたのか肘を立ててわしを見上げていた。
どかりと胡座をかいて溜息を吐いているわしを見て昌輝は首を傾げている。
「何やら物音が。如何された兄上」
「奥の部屋には行くなよ昌輝。勝頼様がおいでだ」
「何と。まさか、昌幸が居らぬのは、そういう事ですか」
「お館様にしてやられた」
「勝頼様に取られたと、お思いですかな」
「まさか。何があろうと昌幸はわしの弟だ」
「勝頼様に妬まれますぞ兄上」
「そういう目では見ておらん」
ほら寝ろ、と昌輝に枕を投げて布団を被った。
久方振りの畳と布団だ。
今はその有り難さに目を閉じ、眠りに着くことに専念した。
夜明け前。
日が昇る前に目が冴えてしまった。
顔を洗うべく戸を開けると、奥の部屋の前の縁側に勝頼様が座っていた。
わしと目が合うなり手を振ってくれた。
「おはようございます。勝頼様」
「ああ、信綱。おはよう。昨晩はすまなかった」
「は…」
「…本当は見せたくないのだが、昌幸がそなたの上着を離さぬ。私でも適わぬ事があるようだ」
「昌幸は、どうしていますか」
「媚薬の効き目は切れたようだ。今は疲れて未だ眠っている」
「左様でしたか」
「信綱、昌幸に会ってくれぬか」
「は…。されど、宜しいのですか」
「どうやら怖い夢を見ているらしい。幾度慰めても昌幸はそなたの名を呼ぶ。此処に居たら信綱が通り掛かるかと思って待っていたのだ」
「そんな。お声掛け下されば飛び起きましたものを」
「兄弟水入らずの所を邪魔をしたのは私だ。幾ら私とてそこまで無礼ではない」
「勝頼様、此方をお召しになって下され」
「ありがとう、信綱」
昌幸と一晩を共にしたのは間違いなかろう。
どれほど此処で待っていたのか知らないが、勝頼様は凍えていた。
一先ずわしの上着を被せると、勝頼様は笑った。
「ふふ。昌幸もな。私にこうやって上着を掛けてくれるのだ」
「信濃衆は、寒さには強いものですから」
「昌幸も割と寒がりだぞ?」
「昌幸は、此方で育ちましたからな。郷に来た際に、一番寒がりです」
「そうか。信綱と昌輝に会うと昌幸がいつももふもふなのはそういう事か」
「はい。されば」
戸を開けると、身形は整えられていたがどう見ても事後である。
昌幸はわしが置いていった上着に包まり眠っていた。
その肩には勝頼様の上着も掛けられていた。
勝頼様が上着を着ていなかったのはその為か。
ずっと泣いていたのか、目尻が赤い。
ある意味泣かされていたのかも知れぬが、今は一先ず昌幸の頭を撫でた。
「昌幸」
「…おいていかないで、あにうえ…」
「怖い夢とは、それの事か」
昌幸は、人質として置いて行かれるあの日の夢を見ているのだろうか。
勝頼様が居るからとわしが置いていったからか、そのような夢を見ているのだろうか。
そうだとしたら酷い事をしてしまった。
「昌幸」
「…ん…」
寝言と会話してはならぬと郷の爺が言っていた気がする。
それ以上の言葉を交わすのは止めて、頭を撫でると昌幸の表情は穏やかになった。
勝頼様も傍に歩み寄り、昌幸の頬を撫でた。
勝頼様だと解っているのか、昌幸が微笑んだ。
子供の頃から仲が良かった二人だ。
きっと今は夢の中で四郎様が源五郎の傍に居るのだろう。
昌幸が微笑んだのを見て勝頼様がほっとした様子でわしの肩に凭れた。
「昌幸は、武田を恨んでいるだろうか」
「何故にです」
「躑躅ヶ崎館に昌幸が、源五郎が来てな。私はとても嬉しかった。歳の近い友など今まで居なかったからな」
「左様なれば良うございました」
「だけどな。源五郎は一人になるといつも泣いていたんだ。幸隆殿と、信綱、昌輝の名を呼んでいつも泣いていた」
「…そうでしたか」
「初めて源五郎の泣き顔を見た時に、私が護らなきゃいけないって思ったんだ。思えばその時から、私は昌幸に一目惚れをしていたのだ」
昌幸への触れ方で解る。
勝頼様は眼差しはとても柔らかく、ただただ愛しいのだと傍から見ても一目瞭然であった。
わしが昌幸に触れるよりも、慈しみが染みていた。
わしとて、勝頼様に適わぬ事もある。
わしは身内以上の、兄以上の事は出来ない。
改めて勝頼様に向き直り、頭を下げた。
「勝頼様」
「うん。何だ」
「わしの目の届かぬ時が来たら、昌幸を宜しくお願い致す」
「勿論だ。昌幸と言わず真田は武田に必要不可欠だ。今後ともよろしく頼む」
「は…」
「だが、昌幸は何れ娶るからな」
「…となると、話は変わりますな」
此処まで勝頼様に愛されているのだ。
わしとて、交際は認めざるを得ない。
だが、されとて昌幸は真田家の男児である。
勝頼様に嫁ぐとか、そういうのはまた話が違う。
「…勝頼様…、信綱兄上…?」
「昌幸、早く結婚しよう!」
「え…?」
「待て待て、昌幸。流石にそれは時期尚早である。父上に話をだな」
「あの、何のお話しを…?」
目を擦り、昌幸が目を覚ました。
唐突な勝頼様の言葉に頭が覚醒していないようで、昌幸は小首を傾げて困っていた。
暫くすると昌幸が微笑み、口論する我等を見つめていた。
「御機嫌だな、昌幸。何かいい事があったのか?」
「はい。目が覚めて、勝頼様と信綱兄上が居るなんて…幸せです」
「…可愛いことを」
「昌幸は可愛いではないか」
「昌輝兄上も居らしたら…」
「おうおう、何だ。呼んだか」
「昌輝兄上」
昌輝が来たところで昌幸の目は覚めたようで、普段以上に笑っていた。
勝頼様が少々むっとされて昌幸を抱き留めていたが、昌幸は笑って、兄上ですよ?と首を傾げていた。
「信綱や昌輝だからだ、昌幸!」
「信綱兄上や昌輝兄上がどうか為さったのですか?」
「昌幸は自覚がなさ過ぎる!」
「何を怒っておられるのですか?」
「はは」
昌幸は勝頼様を愛している。
だが、わしや昌輝の事も慕ってくれている。
昌幸は、昌幸である。
勝頼様も、相変わらず勝頼様である。
変わった事もあった。だが、変わらない事もあった。
昌幸に耳打ちで今宵こそは一緒に寝ようかと言うと、昌幸は破顔して頷きわしを見上げて笑っていた。
「そういう所だぞ、信綱!」
「何の事ですかな」
昌幸を撫でていると、勝頼様がまたも拗ねていらした。
されとて昌幸が寄り添えばその機嫌も直る。
何とも可愛らしい二人ではないか。
今は、この二人の弟達を兄として見守ろう。
願わくば、この気難しい弟がずっと幸せで居られますように。
昌輝と顔を合わせて笑い、朝餉の支度をするべく皆を立たせて肩を叩いた。