豆は魔滅とも書かれるらしく、豆でお祓いをするようなものだと父から聞かされた。
鬼は外、福は内。
災難は家の外へ、幸福は家の内へ。そうして鬼の面を被り父上が私達を追い立てていた。
父上とは解っているのだが、鬼の面が怖くて固まってしまった。
信綱兄上や昌輝兄上は父上に無礼講と言われている為に、容赦なく豆をぶつけている。
私も豆の入った枡を持っているのだが、びくびくと強ばってしまって物陰に隠れていた。
「源五郎は何処に行った」
「彼処で小さくなっております」
「余り驚かさんで下さい、父上」
「余り甘やかすな信綱。こんな面が怖くてどうする」
「っ、ゃ」
「…いや、解ってはいるが源五郎に避けられると胸が痛むな」
「ほら、お豆さん投げないと源五郎に悪い物がついてきてしまうかもしれないぞ?」
「父上に投げたくないのです…」
「可愛い事を言う」
「なら、わしが鬼になろうか」
「信綱兄上はもっと駄目」
「そうかそうか」
鬼の面を取られた父上と、私を抱き上げた信綱兄上に撫でられて微笑む。
さりとてそういう行事なのだからと、恐る恐るぺちぺちと父上に豆を投げた。
その後、直ぐに父上に駆け寄って投げて当たったところを擦る。
「父上、ごめんなさい」
「ははは、鬼に謝ってどうする」
「されど」
「お前は、優しい子だ」
父上が私を抱き上げて笑っていた。
父上や兄上の優しげな声色が耳に残っている。
腕に抱えられて、ひとつ、ふたつ、みっつ、父上の手ずから豆を食べた。
それも五年前の話。
今は甲府の躑躅ヶ崎館にて、同じく節分の行事が行われていた。
私は人質として、奥近習見習いとして、日々を忙しなく過ごしていた。
されとて未だ歳は八つを数える頃で、心の底では真田が恋しい。
真田の郷の事を、父上や兄上達の事を忘れた事はない。
今日は節分だ。
五年前を思い出して少し寂しく思う。
毎年、躑躅ヶ崎館に方々を集めて節分の豆撒きを行う。
お館様の計らいで私達も豆を投げる事になった。
鬼役は秘密だと、お館様達は奥座敷に引っ込んでしまった。
後片付けが大変だぞと兄様方に聞いて、方々に枡に入れた豆を渡していた。
門をくぐる方々の中に見慣れた方々を見かけて目を細める。
私は持ち場があるからと駆け寄れないでいたが、あちらから駆け寄ってくれた。
「源五郎、息災か」
「はい。信綱兄上」
「源五郎、また少し背が伸びたな」
「昌輝兄上。お久しぶりです」
「源五郎、どれ」
「ち、父上」
信綱兄上、昌輝兄上に頭を撫でられ、父上には抱き上げられてしまった。
懐かしい郷の匂いにほくそ笑み、父上の胸の中に埋まる。
ぎゅっと父上の袖を握ると、柔柔と頭や頬を撫でられて心地良い。
もう幼子ではないのにと頬を膨らませていると、その頬すら撫でられてしまって唇を尖らせる。
奥近習の兄様方には昌次が話をしてくれたようで、甘えておいでと手を振られた。
「源五郎も豆を投げるのか」
「はい。お館様の計らいで…」
「鬼役は誰だ?」
「私にも解りません」
「馬場様が先程張り切っておられましたが」
「鬼美濃、信房様か。まあ、今回はわしではないからな。節分故、思い切り投げるが良いぞ」
「お、お叱りを受けませんか」
「そんな鬼、わしが退治てくれるわ」
「怖くなったら、わしらの所に来るのだぞ」
「源五郎はわしらが護るからな」
「父上、兄上」
束の間、父上と兄上達に甘えていたが、豆をお渡しすると父上と兄上は私に頭を下げた。
私には私のお役目があるのだと分かって下さった。
父上達を見送り持ち場に戻ると、方々に渡す豆が足りなくなってしまった。
新しく枡を出して、籠から枡を掬い方々に渡した。
「手伝おうか、源五郎」
「四郎様」
お館様の御子息、四郎様とは歳が近く、今では友と呼ばれてお付き合いさせていただいている。
お互いに歳の近い友など居なかったものだから、四郎様とは特段仲が良かった。
私の隣に座り、四郎様は豆を枡に入れるのを手伝って下さった。
四郎様のお姿を見て他の奥近習の兄様方が慌てていたが、四郎様は構わないと笑っていた。
「源五郎の傍に居たくてな」
「傍に居て下さるのですか」
「鬼から源五郎を護りたいのだ」
「源五郎とて、おのこです。御心配には及びませぬ」
「今年の鬼も怖いぞ。容赦ないからな。去年は父上がこてんぱんにやられていたから、張り切っておられる」
「…豆撒きですよね?」
「武田の豆撒きは戦であるからな。鬼とて丸腰ではないぞ」
「えっ」
枡を配り終わって、方々は屋敷の部屋や庭に思い思いに待機をしていた。
私も門の戸締りをして、四郎様と手を繋いで鬼に備えた。
回廊に居る信綱兄上が手を振って下さり、父上と昌輝兄上の場所も教えて下さった。
いざとなればおいでと、信綱兄上が微笑んで下さった。
四郎様が急に私の手を引いた。
どうしたのだろうと首を傾げていると、四郎様がぷくぷくと頬を膨らませていた。
「四郎様?」
「源五郎は私が護るのだぞ!」
「四郎様は私がお護り致しますよ」
「違う。むう、源五郎分かってないな」
「??」
「私は好きな子を護りたいんだぞ。源五郎が好きなんだぞ」
「し、四郎様」
「むう」
四郎様は時たま、私の頬や唇に口付ける。
私の事を好きだと仰って口付ける。
ぽっと頬を赤く染めて四郎様の手を握る。
四郎様と、このような間柄なのは、父上や兄上にも秘密だ。
遠くで物音がして急に騒がしくなった。
どうやら鬼役が出たらしい。
方々も其方に走っていって、豆が散らばっている。
「相変わらず、容赦ない」
「おうおう、日頃の恨みをぶつけてこんか!」
「鬼美濃を懲らしめた者は、次の戦の褒美を倍にするよ!」
「おい待て晴信、わしらはどうなる」
「信房、おこと少し手加減しておやりよ。子供らが泣いちゃうじゃろ」
「晴信、おぬしには豆でなく芋虫を投げ付けてやろうか」
「誰そ!鬼美濃を止めんか」
「はっはっは!!」
鬼役筆頭はどうやら鬼美濃、馬場信房様である。
昌景様などの侍大将の方々が鬼役であられるようだ。
方々に豆をぶつけられているのに、信房様は怯まない。
見れば鬼役の方々は甲冑に鬼の面を被られているではないか。
刀や槍を手にしておられないだけで、武田騎馬隊の侍大将そのままである。
流石の私も怯んだ。父上の鬼役など可愛いものだ。
四郎様の手をぎゅっと握り、袖を握る。
「おうおう、坊主共!かかってこんか!」
「っ」
「此方は待たぬぞ!やれ、めんこい坊主共は食らってしまうぞ!」
鬼に見つかってしまった。
猛々しい足音が聞こえて体が強ばってしまい動けない。
捕まってしまうと袖で顔を覆っていると、四郎様が鬼に豆を投げていた。
「ならぬならぬ!源五郎は私が護るのだ!」
「四郎様っ」
「ははは、奥近習の小僧!若に護られてどうする!」
「っ、四郎様は私がお護りします!」
四郎様に庇われてばかりではならぬと、四郎様の前に出て鬼に豆をぶつけた。
鬼は、甲冑からして信房様であろう。
信房様はやはり怯まず、私を抱えてしまった。
他の鬼も来てしまって、身を震わせる。
「おうおう、勇敢な坊主だ。今より大きくなって、沢山幸せになれよ」
「源五郎っ」
「ゃっ、ぁ…!」
「やあやあ、いざ勝負!」
「む!真田の小倅、信綱か!待てい、よくもぶつけおったな!」
「今のうちに逃げよ、源五郎」
「我が子に手出しはさせませぬぞ」
「む、待てい!真田!!」
信綱兄上や父上が来て、鬼らに執拗に豆をぶつけて鬼役の方々は其方に向かってしまった。
怖くて涙ぐんでいると、信房様にすとんと床に下ろされて頭を撫でられた。
きょとんとして見上げていると、鬼の面を外されて微笑まれる。
微笑みは怖くはなかった。
再び豆がぶつけられて、鬼の面を被り直し信房様は其方に向かっていった。
四郎様に駆け寄られて抱き締められる。
四郎様も涙ぐんでいたのに、私を助けようと豆を投げていたのだ。
涙を拭って四郎様と手を繋ぎ、方々がどうなったか見に行くと屋敷内も庭も撒かれた豆だらけで鬼役の方々が跋扈していた。
「いつも、ああなのですか」
「うん。毎年、あんな感じだな」
「四郎様、私を助けて下さいましたね。申し訳ございません」
「否、私が護ると言ったのに…源五郎を護ったのは信綱や幸隆殿だ」
「四郎様とて助けて下さいました」
「否、私は」
私も四郎様の事が好きなものだから、ちうと四郎様の頬に唇を寄せた。
四郎様とて怖かったのであろうに、私を助けようとして下さったのは知っている。
ぽぽぽと頬を染める四郎様に微笑んで、また手を握った。
そんなお話しも今は昔。戦場においては、皆が皆、鬼となる。
今や、私もその鬼の一員である。
「おう、昌幸」
「信房様」
「わしの傍におれよ。また幸隆や信綱にどやされるわ」
「父や兄が申し訳ございません」
「一番怖いのは勝頼様よな。昌幸の事になると怖や怖や」
「何の。今も昔も信房様が一番恐ろしいです」
「…ふむ。あのちんまい坊主が今やわしの横に居るとは。わしも歳だな」
「鬼美濃が何を仰いますか」
「ははは。さて、参るぞ昌幸。一番槍を取って参れ」
「心得ました」
信房様の傍で、私は戦っている。
傍には勝頼様や信綱兄上の部隊も見て取れた。
今は私も鬼である。にやりと微笑まれる信房様はまさに鬼であった。
されとてあの時、私を撫でた手は優しかった。
勝頼様と一番槍を競う事になりそうだと信房様は笑って私を送り出してくれた。
私が知る鬼はとても怖くて恐ろしいが、優しい手をしていた。