とても安心あんしんできる場所ばしょ

甲府の暑さに参っているなら、いつでも帰っておいで。
いつでも会いたいと思っている。これが片付いたら、直ぐに会いに行く。

信綱兄上から私の元に手渡された手紙を幾度も読み直している。
会いに行って良いのなら、上田に真田にとうに会いに行っている。
会いたくて会いたくて、恋焦がれている一番上の私の兄だ。大好きな兄上だ。

いけない事だと解っている。好きになってはいけない人だとも。
想いを自覚してそれを伝えた。伝えるだけでよかった。よもや、通じるとは、思わなかった。私が兄上を、お優しい兄上を堕としてしまった。
兄上はずっとお優しい。初めての時もとてもお優しかった。触れられる度に、幸せ過ぎて泣いてしまった事を思い出す。
許されないことだと諦めていた事を、兄上は。
信綱兄上との関係は誰にも話せない。二人きりの秘密である。

確かに甲府の夏は暑い。
勝頼様や昌次に毎日のように今日も暑いなと微笑まれ、お館様に団扇で風を送っていた。
二番目の兄の昌輝兄上は、今日も甲府で走り回っておられた。
昌輝兄上も甲府にて、私同様、お館様にお仕えしている。

七つの時から、兄達とは離れて暮らすようになったからだろうか。
以前よりは会えるようになっているというのに、離れるほどに恋しくなった。

「幸隆は元気にしておるかね」
「は…」
「昌輝は相変わらずじゃな」
「はい」
「信綱に会いたいのじゃろ」
「…っ、お館様?」
「そう顔に書いてあるよ」
「申し訳ございません」

兄離れが出来ていない子供のようだと呆れられたに違いない。
今朝の手紙のせいで、信綱兄上の事をずっと考えていた。
顔に出さないようにしていたのだが、お館様は目敏い。
申し訳ないと頭を下げて謝罪を述べるも、お館様は私の肩をぽんぽんと叩いた。

「幸隆と信綱は、今ちと忙しくてのう」
「承知しております。申し訳ございません」
「これ、信綱に渡してくれんかね」
「私が、ですか」
「いつもは昌輝に頼むんだけどね。今回は昌幸に頼もうかね」
「…は、畏まりました」
「上野はそろそろ、幸隆と信綱なら上手くやってくれるじゃろうて」
「承知致しました」
「これは、わしからの残暑見舞いじゃよ。昌幸もあちらでお上がり」
「有難う存じます」

お館様に気を使われてしまった。何とも情けなく申し訳ない。だが、有難いとも思ってしまった。
父上は岩櫃、兄上は上田に居られる。
上野がきな臭いと、父上と兄上は謀略を張り巡らしている。

見舞いの品は何であろうと確認した所、甲州の桃や葡萄、それに酒であった。
桃は傷みやすい。もって三日という所であろう。まだ青い桃であるから五日はもつだろうか。早く行けと仰せなのだろう。
それに私が行けば、父上と兄上のお手伝いが出来るかもしれない。

本来であれば昌輝兄上の御役目である。
岩櫃と上田、どちらにも行くとなるとかなり時間がかかってしまう。
大事にしたくはない。敵方に気取られたくはない。父上と兄上の邪魔をしてはいけない。
昌輝兄上なら健脚である為、難なくこなすのであろうが、私は兄上達ほど健脚ではない。
昌輝兄上と共に行けたら心強いのだが、お館様にこうも気遣われている手前、私から進言してはならぬと下を向いていた。

見舞いの品を抱きかかえ、何とか父上と兄上にお届けしなくてはならないという使命感に燃えて躑躅ヶ崎館の庭を歩いていると、不意に肩を叩かれた。

「昌幸」
「昌輝兄上」
「お館様に呼ばれてな。わしも行く」
「っ、そうなのですか?」
「本来であればわしの役目であったからな。そろそろお声掛けがあると思ったが、昌幸にと聞いた。だがお前、あの岩櫃と上田を往復出来るか?」
「…何とかしようと考えておりました」
「はは、故にな。俺から進言したのだ」

昌輝兄上に肩を抱かれて、頭を撫でられる。
昌輝兄上と一緒に行けるのか。緊張と不安が拭えて、ほっとした。
本心を言えば、一人で行くのは心細かったのだ。

「甲州の桃は美味いからな。先に岩櫃に行こう。道は任せておけ。山越えになるが大丈夫か?」
「兄上と一緒なら心強いです」
「そうか。兄上には葡萄をお渡ししよう。岩櫃で様子を見て大丈夫そうなら、桃もお包みしよう」
「はい。畏まりました」
「支度をしておけ。明朝に出るぞ。品は涼しいところに置いておけよ」
「はい。あの、昌輝兄上」
「ん?」
「ありがとうございます」
「はは、気にするな。俺もお前と一緒に里帰りが出来て嬉しいよ」

頬や頭を撫でていくと、昌輝兄上は足早に真田屋敷へ帰って行った。色々支度があるのだろう。
それに昌輝兄上も上野の情勢の事は存じているはずだ。
私が暫く留守にする事を懇意にしている若殿である勝頼様に伝え、奥近習仲間である昌次にも伝えた。

「そうか。大変な工程になるかもしれないな。道中、気をつけてな。甲斐は暑いからな。信濃で涼んで来るといい。幸隆殿と信綱に宜しくな」
「ありがとうございます。勝頼様」
「桃は傷さえ付かなければ案外持つぞ。どれ布でひとつひとつ包んでおこう。固い入れ物に入れておくといいぞ」
「そうなのか。恩に着る昌次」
「ああ、此方は大丈夫だからな。気にせず行って来い」
「すまない、昌次。ありがとう」

それから昌次と勝頼様にも支度を手伝って貰い、準備は滞りなく終わった。
寝る間際に、お館様の見舞いの品を私と昌輝兄上が届ける事を父上と信綱兄上に文を書いた。
文が着いた少し後には、私達も着いているだろう。そう願って早めに眠ることにした。




朝一番、出立の支度をしていると、もう戸口に昌輝兄上がいらしていた。
忘れ物がないように荷物を確認していると、昌次や勝頼様の姿も見えた。

「おはようございます」
「おはよう、昌幸」
「おはよう昌幸。よく眠れたか」
「はい、昌輝兄上」
「もう少しで着く頃だ。暫し待ってくれないか」
「と、申しますと?」
「道順を示したら、昌景様が途中まで見送ってくれるそうだ」
「三富を通っていくのだろう。私から昌景に話をしておいたのだ。三富は昌景の温泉があるところだからな」
「何と…、そんな、畏れ多い事です」

程なくして昌景様が供を連れて騎馬で現れた。
昌景様は、私が幼い頃に目をかけて下さったと聞いている。私の記憶は朧気であるが、今や四天王のお一人に数えられるとか数えられないとか。
兎にも角にも武勇は武田軍一と言っても差し支えない御方である。
昌景様と共に、信綱兄上が戦線を駆けている事もよく存じている。
昌景様は勝頼様に頭を下げた後、私達に騎乗するよう昌景様は促した。

「わしの馬だ。ついてまいれ」
「は、恐縮です」
「恐れ入ります」
「信綱には世話になっているからな。お前達とて同じよ」
「ありがとう存じます」
「気をつけてな」
「昼飯を入れて置いたから、後で食べるといい」
「勝頼様、行ってまいります。ありがとう、昌次」

勝頼様と昌次に手を振られて見送られる。
荷物は供の方々が三富までは持って下さるそうだ。
深々と頭を下げると、昌景様と昌輝兄上に導かれて甲府を後にした。

三富は昌景様の所領地である。
通り抜けるのであれば御挨拶をと思ってはいたが、まさか御本人が来て下さるとは思わず畏れ多いといったらない。
武田騎馬隊の馬であろう。とても疾くてよく言うことを聞く、乗りやすい馬であった。
昌景様は、昌輝兄上と雑談をしていた。聞けば奥多摩の山々を抜けて荒川を上がれば、岩櫃は直ぐらしい。
だが、この方々の直ぐとは、きっと直ぐではないのだろう。武田家中において分かったことがある。方々の普通の基準が私の思う普通と違いすぎてあてにならないのだ。
それは信綱兄上や昌輝兄上にも言えることである。
ゆめゆめ侮らぬよう気を引き締めねばなるまい。
不意に昌景様が隣に着いた。昌輝兄上も歩みを緩めて私の隣に並ぶ。

「そう恐い顔をするな、昌幸」
「そんな顔をしていましたか」
「気張り過ぎるな。昌輝も居るのだから大事あるまい」
「はい」
「うちの温泉に入らせてやりたかったのだがな。此度は急ぎと聞いた。またの機会にさせてくれ」
「そんな、畏れ多い事です。何より昌景様に御足労を」
「なに、気にするな。ちょうどわしも帰ろうとしていたところだ」

昌景様の案内と馬の速さも相俟って、随分早く峠まで来ることが出来た。
どうやらこの先も道が整備されているらしく、馬で抜けることが出来るらしい。

「昌輝、わしの馬でなら予定より早く着けるのではないか?」
「はい、わしの馬で行くつもりでしたが、武田騎馬隊の馬でしたら一日分は縮められると思われます」
「なれば、貸してやろう」
「は、よろしいのですか?」
「幸隆殿にも、信綱にも世話になっているからな。昌輝、弟を護ってやれよ」
「ありがとう存じます」
「ありがとうございます」
「馬を返す時に、わしに顔を見せよ。その時は共に湯船に浸かろうではないか」
「はい、是非」
「楽しみにしております」

昌景様はその後、日が落ちたら動くなと、山小屋の場所を教えてくれた。
馬であれば山を抜けることは訳はないが、日が落ちてから集落を行くのは進めないという。
その山小屋であれば、昌景様の知り合いだとの事で、わしの名を出せば悪い扱いはせぬよと肩を叩いて送り出してくれた。

「幸隆殿と信綱に宜しくな」
「しかと伝えておきます」
「気をつけて行けよ、源五郎」
「昌幸です、昌景様」
「はは、大きくなった」

昌景様は私の幼名を不意に呼んだ。
やはり子供の頃を覚えていてくださったのだろう。
少し恥ずかしく思うも、深く頭を下げて昌輝兄上の後について行った。

この山は、よく管理されている。
山道とはいえ、馬で駆けて行けるくらいには広く、踏みならしてあった。
この山々は昌景様の目の届くところなのであろう。
東へ抜ければ武蔵へ抜けられるが、我等は北に向かう。
昌輝兄上が道を知っていた為、川沿いを駆けて行った。




途中、馬を休ませている時に、水を汲んで昌輝兄上に渡した。
昌輝兄上は一息に飲むと、直ぐにまた水を組み直し、私に飲ませてくれた。

「疲れたか?」
「大丈夫です」
「もう少し馬を休ませたら行こう。山でひと所に立ち止まるのは良くない」
「何かいるのですか」
「獣なら俺が何とか出来るが、獣以外の方が厄介だ。だが此処は昌景様の山だ。ならず者は居らんだろうよ。だが、心しておけ」
「はい…」
「なに、俺が必ず護るから心配するな 」

昌輝兄上は私の頭を撫でて微笑んでくれた。
私とて刀や弓も扱えるようになった。子供扱いされるのは不服なのだが、兄上の頼もしさは相変わらずであった。

昼食に、おむすびを開けた。おむすびは、梅干しが入っていた。昌次が作ってくれたおむすびだ。
おむすびを兄上と分けて食べていると、不意にお地蔵様が目に付いた。
道端にある小さなお地蔵様だ。

「昌幸、おいで」
「はい」
「こちらはお地蔵様ではないのだ。道祖神だ」
「お地蔵様ではないのですか?」
「道の神様だ。つまりここからは、この神様の領域という事だな」

そう言うと昌輝兄上は酒を一献捧げて、深々と手を合わせて頭を下げた。
私も兄上に習い、手を合わせて頭を下げる。

「無事に山を抜けられるようお祈りした。さて、食ったら行こうか」
「はい」

昌輝兄上が煙草に火を付けた。
煙草など吸われていただろうかと思ってみていたが、吸うつもりはないらしい。
煙草の煙を獣が嫌うという。人がいる証となるそうだ。

「ここからは声を出して喋っていこうか、昌幸」
「はい」
「最近、どうだ。御役目は」

昌輝兄上は敢えて大きな声で喋っている。
きっとこれも獣避けなのだろう。
兄上に習い、ただ、誰に聞こえてもいいような話題になるように努めて馬を出発させた。

兄上と他愛のない話を続けながら、何とか山小屋のあるところまで馬を走らせることが出来た。
此処は麓にほど近く、あと少しで山里に出るかというところである。
日はもう少しで夕暮れになろうかという所である。

「兄上、このまま下山出来るのでは」
「否、この山小屋に世話になろう」
「何故にです」
「暗い山から降りてきたものは恐いだろう」
「あっ…」
「そういう事さ。御免、何方かおられまいか」

昌輝兄上の言うことに頷いていると、山小屋には老夫婦が住んでいた。
どうやらこの辺りの旅人の世話をしているらしい。
昌景様の名前を出すと、我等に深々と頭を下げた。あちらもお館様の名を出していつも世話になっていると感謝の言葉を述べてくれた。どうやら信用できる方々のようだ。一晩面倒を見てくれる事になった。

一晩の御礼に、昌輝兄上が酒を振舞った。
御夫人の家事の手伝いは私が率先して手を貸すようにしていた。
お侍様なのに優しい人ねと御夫人は優しい言葉をかけてくれた。不意に母上を思い出し、寂しくなってきてしまった。暫く会えていない。
夕餉を馳走になり、明日も早いからと早めに床につけるように取り計らって貰った。
褥は質素なものであったが、山中で横になれるだけ有難いものだ。
我等は囲炉裏の傍で横になることになった。

今日一日で随分、進むことが出来た。
方々には頭が上がらない。
昌輝兄上が一緒に居てくれて本当に良かった。

「兄上、あにうえ、寝てしまいましたか」
「どうした、昌幸」
「あの…」
「ほら、おいで」

昌輝兄上が腕を開いて私を招き入れた。
実は寒くて仕方なかったのだ。そして何より心細くもあった。
信綱兄上が恋しい。人肌が恋しい。何より慣れぬ旅は心細かった。
そんな私を察して、昌輝兄上は私にくっ付いて腕を枕にしてくれた。

「昌輝兄上が居られて、本当に良かった」
「そうか。俺もお前が居てくれて嬉しいよ」
「本当に、ありがとうございます。私一人では成し遂げられなかったやもしれません」
「俺はお前なら上手くやると思うけどな。ほら、もうお休み。これなら寒くないだろう」
「ひとつ聞いても、良いですか」

昌輝兄上の方に向き直り、腕の中で兄上を見上げた。
どうにも疑問に思っていたことがあるのだ。
私は信綱兄上の事を兄である以上にお慕いしているが、昌輝兄上の事も大好きであった。無論、兄としてである。
信綱兄上は頼りがいのある優しい兄で、昌輝兄上は涙脆くて頼もしい兄である。
重ねて言うが、私はこの二人しかいない兄達が大好きだった。

「松本を目指して北上した方が早かったのでは…」
「あー、そこに気付いたか。さすがだな」
「はい。何故に遠回りを」
「その辺りは穴山様の御領地だ。穴山様には何かと…まあ、察せ。さればお前や兄上を懇意にして下さっている昌景様の御領地を通る方が安全だろう。それにあちらの山道の方が険しくてな。馬では行けぬ。宿場町も多いが、余計な出費はしたくないしな」
「なるほど…」
「少し遠回りをしても安全な道の方が良い。それに、その方が長くお前と一緒に居られると思ったのだ。許せよ」
「あにうえ…」
「俺とて、たまにはお前を構いたいのだ。お前はずっと俺達の可愛い弟だからな」
「兄上は、もう」

思わず胸元に額や頬を擦り付けると、兄上が頭や髪を撫でて下さった。
懐かしくて嬉しくて、私がまだ幼子であった頃を思い出した。
今でも兄上達には甘えたいと密かに思っている。密かにしているのは、兄上達は私に構い過ぎるからだ。
体温が移り、撫でられる手が心地良い。
兄上がこんなに傍に居られるからであろう。疲れもあったのか、私は直ぐに寝入ってしまった。

下山して二日、ようやく岩櫃城の麓に着いた。
昌輝兄上は終始頼もしく、また常に私の兄で居てくれた。心地好い時を過ごす事が出来た。馬もよく走り、山道を頑張ってくれた。
山を越えた長旅であったが、昌輝兄上が私の不安など吹き飛ばしてしまった。
私もこうも昌輝兄上と共に過ごせた事にほくそ笑んでいた。こんなに長く昌輝兄上と二人きりで過ごしていたのも初めてかもしれない。
無論、御役目である。御役目ではあるのだが、兄弟で過ごせる事が嬉しかった。

昌輝兄上と共に居れば寂しくはなかった。
毎夜、昔のように兄上にくっついて眠っていた為、夜は寒くはなかった。
だが、信綱兄上が恋しいのは変わらなかった。昌輝兄上は昌輝兄上である。信綱兄上の代わりにはならないのだ。
岩櫃まで来れば、上田も近い。信綱兄上に会いたい思いは変わらない。




流石に我等の姿を見れば、領民達が声をかけて荷物を運んでくれた。
私達が着いたことを知ったのだろう。父上が供を連れてお自ら迎えに来て下さった。

「昌輝、昌幸」
「父上、御無沙汰しております」
「父上、そんな、御自ら」
「文を見た。お前達が来ると聞いたからな。待ちかねておった」
「情勢は如何ですか」
「今は落ち着いておる。源之助がよくやっておるわ」
「さすが叔父上ですな」

沼田の頼綱叔父上の活躍を聞き、真田は相変わらずであると安堵した。
ぴりついているかと思ったが、父上も変わらずお元気そうで何よりである。
父上の顔を見たら、私も気が抜けた。昌輝兄上もそうなのだろう。
私と昌輝兄上の頭を撫でて、父上はよく来たと嬉しそうに笑っていた。
そして岩櫃城に入り、父上にお館様からの品を手渡すことが出来た。
何とか痛まずに桃や葡萄を渡すことが出来た。

暫し小休止をした後に、父上に呼ばれて食事を共にした。
父上は、信綱兄上がこの場に居ないことを惜しんでいた。
信綱が居れば兄弟揃ったのだがな、と。そう言って私と昌輝兄上を撫でるのだ。
信綱兄上の名を声に出して聞いたところで、また恋しくなってしまった。

岩櫃には二日ほど滞在し、沼田の叔父上にも品を贈るよう手配し、上田に向かう。
ここから先は馬で行けるところまで行き、四阿山を登る。
元きた道をまた戻り甲府に戻るので、昌景様にお借りした馬は父上の元に預けることにした。帰る時にまた顔を見せると父上に約束した。
父上は落ち着いたら甲府に行くと、私達を名残惜しく見送ってくれた。
父上と穏やかな時を過ごせたことに、私も兄上も心が安らいでいた。

四阿山を過ぎてしまえば、真田は直ぐである。
此処まで来てしまえば、昌輝兄上の庭である。足取りも軽く、昌輝兄上も嬉しそうである。
私は幼子の頃の記憶がうろ覚えであった為に、四阿山の事を覚えてはいなかった。

「父上と兄上がこの奥宮を改修したのだ」
「そうなのですか?」
「俺はまだ生まれたばかりのお前を護れと言いつけられてその時は行けなかったのだが、お前が歩けるようになった頃に、一緒に登ったのだ。覚えてないか?」
「…あ、思い出しました」

父上に連れられて、信綱兄上に背負われて、この山に登ったことを覚えている。
目に映るもの全てが初めてで、兄上にあれはなに?と片っ端から聞いていたように思う。
帰りははしゃぎ疲れてしまって、父上の背中で眠ってしまったことを思い出した。

山頂から真田の郷が見えた。
徐々に思い出が蘇る。とてもとても大切にされてきた記憶がある。
大事に大事に大切に大切に育てられた記憶が蘇ってきた。あまり長くは居られなかったけれど、此処が私の故郷なのだと懐かしむ。
父も兄も、私を怒鳴りつけるような事はなかったし、あまり怒ったところを見た事がない。今思えば、見せないようにしてくれていたのかもしれない。

信濃に入れば、随分と涼しく空気が冷たい。
父上と信綱兄上が改修したという奥宮に参拝も終えて、いよいよ下山する。
昌輝兄上に手を取られながら、浮き足立って山を駆け下りていた。

「そんなに急ぐな。足を取られるぞ」
「平気です。此処はもう真田ですから」

もうすぐ信綱兄上に会える。
そう思うと足が軽い。




「大丈夫か?」

優しい声色にはっとして目を開けた。
大きくて広い背中に私は背負われている。身を起こすと昌輝兄上に頭を撫でられた。

「あにうえ…?」
「ああ、よく頑張ったな昌幸」
「大丈夫か。俺がわかるか」
「昌輝兄上」
「うん」
「信綱兄上?」
「ああ。報せを聞いて、そろそろだろうと迎えに来た」
「のぶつなあにうえ」

私を背負っているのは信綱兄上だった。
兄上の匂いがする。
思わず首に腕を回すと、私は足を挫いているようだった。
思い出した痛みに眉を顰めると、兄上が頬を寄せてくれた。
私も頬を擦り寄せると、昌輝兄上が頭を撫でてくれた。

「転んで頭を打ったからな。暫く大人しくしておけ」
「はい。申し訳ありません。兄上の言う通りにしていれば…」
「大したことがなくて良かった。もう少しで郷に着く」
「疲れただろう。うちに着いたら、少し休みなさい」
「はい」

周りを見れば、もう人里に降りていた。
懐かしい景色に目を細めて、兄上の首に腕を回す。耳元でずっとお会いしたかったと囁くと、足を撫でられた。
信綱兄上の顔を見たら安心してしまった。目を閉じて肩に額をつけると、昌輝兄上が髪を撫でてくれた。

信綱兄上と昌輝兄上が話をしている。
時折、昌輝兄上が私の頭を撫でて下さって、耳に届く二人の兄の声が心地好い。




さわさわとした風の音と、虫の声に目を覚ました。
心地好い風と、覚えのある天井。兄上の匂いがする。
体を起こすと、足に冷たい布が置かれていた。

屋敷に着いたのだろう。きっと兄上が運んでくれたのだ。この部屋は信綱兄上の私室だ。
日はいつの間にか落ちて、遠くで人の声がする。

「昌幸」

声が聞こえて戸の方を見る。
信綱兄上がゆるりとした身なりで部屋に入ってきた。
私の傍に腰を下ろして、頬に触れられる。
その手に頬を寄せて目を閉じる。ずっとこうして欲しかったのだ。

「大事ないか」
「はい。申し訳ございません。正式な挨拶もせず」
「良いさ。大した怪我でなくて良かった。迎えに行けて良かった」
「信綱兄上御自ら…、御足労をかけてしまいました」
「なに、見回りのついでだ。昌輝が背負っていたのだがな。あいつも随分疲れていたのだろう。お前の前だから弱音を吐かなかったのさ。わしの姿を見るなり泣きつかれたよ」
「そう、なのですか」
「酒宴でもしてやろうかと思っていたが、昌輝も随分疲れているようだからな。明日にしよう。今日はもう早めにお休み」
「はい…。あ、あの」
「桃は大丈夫だ。葡萄も先程戴いた。今、冷やし直しているから、後で持ってこよう」
「良かった。間に合った様で…」
「此方は涼しいからな。御苦労だったな、昌幸」
「はい、はい…」

信綱兄上の手に甘えながら、頷いた。
昌輝兄上も今は少し休んでおられるのだろう。
後でお話しをしよう。昌輝兄上は強情だから何の事だと恍けるかもしれないが、無事に御役目を果たせたのも昌輝兄上のお陰だ。
信綱兄上の優しい眼差しに身が蕩かされるような思いだ。
ずっとずっとお会いしたかった。
お顔を見て、声を聞いて、温もりを感じたかった。

「…信綱兄上」
「うん」
「あにうえ」

視界が思わず潤む。
この御役目がなかったら、また幾月か信綱兄上にも父上にもお会いすることは出来なかったのだ。
戦国乱世のならい、いつお会い出来なくなるとも限らない。何処も安心ではないのだ。
数少ない安心出来る場所に、また、帰って来れた。
信綱兄上も私に会いたかったのだと、眼差しで分かる。触れられる度に瞳を細めた。
信綱兄上は分かりやすい方だ。分かりやすく好意を伝えてくれる。
私とて今はもう、取り繕う理由がない。

信綱兄上が両手で私の頬に触れて、額に口付けられる。額を合わせられて目線が合う。
好きな人にこのように触れられていては熱ってしまう。

「会いに来てくれて嬉しいよ。文が届いた日から待ち侘びていた。昌景様にも世話になったようだな。わしから礼をしておいた。父上から岩櫃を立ったと報せを聞いて、待っていられなくてな」
「やはり、迎えに来てくれたのですね」
「ずっと会いたかった。また暫く見ないうちに大きくなったな」
「兄上達にはまだまだ及びません」
「綺麗になった」
「兄上、信綱兄上…」

私が目を閉じると、兄上と唇が重なった。
兄上からの口付けが嬉しくて、思わず頬を涙が伝う。会いたくて会いたくて堪らなかったのだ。
一度目は触れるだけで、二度三度と厚い唇が私の唇を食み、幾度も口付けられる。
ずっとこうして欲しくて、此処までやってきたのだ。思わず兄上の首に腕を回すと、私を抱き寄せて頭を支えられ深く深く口付けられる。
兄上の口付けは、優しくて上手で腰が抜けてしまう。名残惜しく離された唇に触れると、兄上が私の目尻に溜まった涙を拭う。

「わしも、こんなに早く、お前に会えるとは思わなかった」
「あにうえ」
「泣かずとも…。そんなにわしに会いたかったのか?」
「はい。お会いしたかったのです。そのような顔をしているとお館様に指摘されまして、このような御役目を下さりました」
「成程。お館様はよく見ておられる」
「信綱兄上」
「昌幸、よく来てくれた。わしもお前に会いたかった」

兄上の言葉ひとつひとつが優しい。声色も落ち着いていて優しくて、何よりもこうしてまたお会い出来た事が嬉しくて涙が止まらない。
信綱兄上はひたすらに優しい。優しくて頼れる我等の兄上だ。
そんなに泣かなくてもいいだろうと兄上は仰るのだが、兄上が優しいからだと腕の中に収まり鼻を鳴らした。

暫くそうしていたら、兄上の胸に埋まり眠ってしまったようだ。
兄上と一緒にいると安堵してしまって、どうにも眠くなってしまう。せっかく兄上と居るのに勿体ない。
頭や背中を撫でられている心地に目を細めて見上げると、兄上も眠っているのか寝息が聞こえてきた。無意識でも私を撫でて下さっているのだろう。
そんな兄上が愛おしくて、思わず頬に擦り寄り唇を寄せた。
起こさないようにしていたのだが、兄上に頬をかぷと甘噛みされ身動ぐ。

「っぁ、兄上?」
「うん。眠れたか」
「はい。兄上もお疲れですね」
「お前が温かくてな。昌輝がもう起きて待っているかもしれん。行こうか」

兄上はひとつ欠伸をすると背を伸ばして、私ごと体を起こした。
そう言えば足を痛めている事を思い出し、兄上に運ばせてしまうなどと首を横に振ったが、兄上はいいよと優しく額を撫でてくれてそのまま私を横抱きにして運んでくれた。

「お待ちしておりましたぞ」
「すまん。待たせたな」
「申し訳ありません、昌輝兄上」
「兄上の事ですから、どうせ昌幸に構って一緒に寝てしまったんでしょう」
「はは、お見通しか」
「道中、昌幸が信綱兄上信綱兄上と泣いておりましたからな」
「な、泣いておりません」
「そうか。寂しい思いをさせてしまった」

居間に行くと昌輝兄上が囲炉裏の炭を整えていた。身なりも綺麗で、どうやら湯浴みを終えられた後のようだ。
食事の支度も終わっていたようで、本当にお待たせしてしまったようだ。
信綱兄上の隣に下ろされて、平に昌輝兄上に頭を下げると昌輝兄上に髪をぐしゃぐしゃにされてしまいむっと唇を噛む。

「昌幸は本当に、信綱兄上が大好きだからな」
「昌輝兄上のことも大好きです」
「俺もだ。だが、信綱兄上とどちらが好きだ?」
「っ」
「昌輝」

信綱兄上が昌輝兄上の額をつんと指で弾いた。
苛めすぎだと信綱兄上に怒られて昌輝兄上は笑っていた。
私は不安気な眼差しでそれぞれ兄上達を見つめていたが、どちらの兄上にも頭を撫でられてしまった。

さあ食べようかと、囲炉裏に向き直り兄弟水入らずで箸をつけた。
戸口には家臣らが待機してくれていた。
真田の郷の品が並び、何処か懐かしい。
私が食べ易いようにと、兄上達は魚の身をほぐしてくれたり、肉を焼いてくれたりと、忙しなく動いていた。信綱兄上は昌輝兄上の分も面倒を見ているものだから忙しない。

「信綱兄上もお食べ下さい。私は大丈夫ですから」
「兄上、こちらが焼けました。こちらは兄上に。俺も自分でやれますから大丈夫です」
「そうか。すまん、ついな。お前達が小さな頃からの癖だ」
「いつも、ありがとうございます兄上」
「ありがとうございます兄上。ですが、もう幼子ではございませぬ。兄上をお支えするのが我等の役目です」
「そうか。すまないな」

信綱兄上の面倒みの良さは、もはや生来の癖である。止めろと言って止められるものでもない。
また我ら弟達も兄上に目をかけられるのは嬉しいので、嫌がっている訳ではない。
兄上が気遣わぬよう、昌輝兄上と目配せをして、信綱兄上の為に食材を焼いて味付けをした。
ありがとう、美味いと信綱兄上は微笑んでくれた。

信綱兄上と昌輝兄上を見つめてほくそ笑む。
兄上達が嬉しいのなら、私も嬉しい。
ひと時でも兄弟が揃い、ゆるりとした時を過ごせる事が嬉しい。
私の視線に気付いた兄上達が、頭や頬を撫でる。幼子の頃からこうして撫でて下さる事が嬉しくて、私も兄上達に甘えてしまう。
昌輝兄上が手を顔近くに寄せてきたので、無意識に頬を当てると、そのまま直ぐに撫でて下さった。

「昌幸は全く、可愛いことをして」
「?」
「ほら、昌幸のが出来たぞ」
「あっ、申し訳ありません。また兄上に作らせてしまいました」
「いいさ。沢山お食べ」

信綱兄上は微笑んでいたが、目が笑っていないように見えた。
もしや昌輝兄上を妬まれたのではと焦っていたら、信綱兄上にも頬を撫でられる。
不安気な瞳を信綱兄上に見破られて、直ぐにふわりと優しい眼差しで微笑まれる。

「源五郎は昔から本当に可愛くて、困ってしまうな」
「全くです。ましてや、こやつ、他の者にはこうは甘えぬのです」
「そ、それはそうでしょう。家族ですから、兄上達だからこそです」
「そうか、それは嬉しい」
「兄上は絶対に甘やかしてくれるものな」
「昌輝兄上は、たまに意地悪です」
「昌輝、昌幸を苛めているのか?」

信綱兄上がじっと昌輝兄上を見つめる。
苛めているのなら、と続きそうな瞳だ。
昌輝兄上が私の頬を指で摘み、私に詰め寄った。そういう事を信綱兄上はしない。

「おい、滅多なことを言ってくれるなよ。俺がこんなに可愛がっているのに」
「む…、昌輝兄上は雑なのです」
「兄上と比べるなよ。兄上は丁寧が過ぎる」
「それならば、良いが」
「昌幸は信綱兄上が大好きだもんな」
「はい」
「そうだな。ふふ」

子供の頃から幾度となく繰り返しよく聞かれていた問答だ。
そう答えると信綱兄上は私の頬を撫でるのだ。そしてその後決まって、昌輝兄上の事も大好きですよと続けると、昌輝兄上にも頬を撫でられた。
今も昔も兄上をお慕いしている。
今は少し意味が違ってしまっているけれど、それは私と兄上だけの秘密だ。

夕餉を済ませ、冷やし直された甲斐の桃と葡萄を縁側で兄上達と並んで摘む。
月と、虫の声と、冷たい風が心地良い。甲府も空が広いが、真田は空が近くに感じる。
星がとても綺麗な夜だった。




今宵は久しぶりに兄弟で寝ようかと、信綱兄上が言うものだから、寝所に川の字で布団を三組敷いて貰った。
何処に寝ようか迷っていると、既に湯浴みを終えられた昌輝兄上が我先に端を取ってしまった。

「俺は寝相が悪いからな。真ん中は駄目だろう」
「そうだな」
「私と寝た時は、そのような事はなかった様な」
「何か抱いていれば大丈夫なんだけどな。
それで宜しいですか兄上」
「ああ。では、わしが真ん中になろうかな」
「信綱兄上、宜しいのですか?」
「お前達が両側に居てくれると嬉しいからな」
「ふむ、兄上に抱き着きますかな」
「私も」
「二人ともは流石に熱いな」

寝所を整えたところで、信綱兄上は湯浴みに行かれた。
昌輝兄上と私はごろごろと横寝をしつつ、話をしていた。お館様のお使いが終わり気が抜けたのだ。
伸ばされた昌輝兄上の腕に寝転がっていたのだが、ひとり湯浴みをされている信綱兄上が気になった。

「昌幸も行っておいで」
「宜しいのですか」
「兄上の背中を流してくると良い。何なら一緒に入ってきたらどうだ。きっと兄上もお喜びになるだろう」
「信綱兄上にお伺いします」
「俺は先に寝ているかもしれん。兄上にはそう伝えてくれ」
「ふ、かしこまりました」

ひとつ欠伸をして昌輝兄上は再び寝転がったが、不意に肩肘を立てて私に声をかけた。

「脚は大丈夫か?一人で行けるか」
「もう大丈夫です。ありがとうございます兄上」
「わかった。行っておいで」

昌輝兄上に見送られて、ひょこひょこと壁伝いに歩く。まだ少しだけ捻った時の痛みがあるが、歩けないほどではない。
湯殿の戸口に側近の姿が見えた。お湯が流れる音が聞こえて、兄上が居られるのだということが解る。
側近に声をかけて、人払いをしてもらうよう伝えた。兄上と二人きりになりたかったからだ。側近は何かありましたらお呼び下さいとは言いつつ、もう休むように私から伝えた。

「兄上、信綱兄上」
「昌幸か。どうした」
「兄上のお背中を流させて下さい」
「そうか。それは嬉しいな。昌幸も一緒に入ったらどうだ」
「…実は、そう兄上が仰ってくれるだろうと期待しておりました」
「はは、おいで。少し狭いかもしれないが」
「はい。直ぐに行きます」

湯殿の戸口の外から信綱兄上にお声掛けすると、思惑通り一緒に入れる事になった。
脱衣所で着物を脱いで、兄上の着替えの隣にまとめて置いた。

兄上は湯船に浸かっていて、私を優しく迎え入れてくれた。
体を流して湯船に入っておいでと言うので、兄上を横目に体を流していた。
また兄上に傷が増えていないだろうかと、思わず兄上の体を見てしまう。
私は髪が長いので、紐を解き適当に洗っていたが、兄上にこらと叱られて渋々きちんと洗うことにした。
きちんと洗うと時間がかかってしまう。早く兄上の傍に行きたいのに。そう思っていたら、不意に兄上が湯船を出て私の背後に座った。

「兄上?」
「見せてごらん。どれ、ますます綺麗になったな」
「そのような…男の髪ですよ」
「髪だけの話ではないぞ」

私の冷えた肩を擦り、湯船をかけて髪を洗うのを手伝って下さった。
結局、幼子の頃のように兄上が髪を流して下さった。私が自分で洗うよりも丁寧に洗って下さり御礼を申し上げると、頭にちうと口付けを受けた。
唇が良いと眉を顰めて振り返ると、そうかと優しく微笑まれて唇と頬に口付けを受けた。
そのまま交代で兄上の背中をお流しする。生傷は増えていないようで良かった。

「近頃…、お怪我はされておりませんか」
「ああ、大事ない」
「何よりです…」
「昌幸?」

兄上の背に額をつけ、そのまま腰に腕を回した。
大きな怪我などされていなくて良かった。
信綱兄上は先方衆筆頭である。青江の大太刀を片手に敵軍に斬り込んでいく。兄上が進めば道が出来る。
幼い頃は、父や兄達が生傷を作ってくる度に泣いてしまっていた。
兄上は、お前が泣かなくていいんだよと優しく諭してくれたが、兄上が傷付けられるのは悲しくて悔しい。
私もいつか昌輝兄上のように信綱兄上のお傍で戦えるようになりたいと思う。

「今宵は、皆で寝れますね」
「ああ。未だ昌輝は待っているかな」
「先に寝ておられるかもしれません。横になられて、欠伸をしておられましたから」
「そうか」

もういいよと頭を撫でられて、湯でお流しした。
冷えてしまうからと、私の手を引いて二人で湯船に浸かる。
さすがに男二人では湯船が狭い。兄上に遠慮して端に身を寄せていたが、兄上に抱き抱えられて背中を預ける形になってしまった。

「あ、あの…」
「うん?」
「兄上に腰掛けるなど、申し訳ないです…」
「構わないさ」
「信綱兄上、あの」

一番好きな人にこうも密着して触れられるのは耐え難い。こうも意識しているのは私だけだろうか。それとも兄上も。
信綱兄上は相も変わらず、いつもの様に優しく微笑む。信綱兄上が我ら弟達に向けられる瞳は至極優しくて頼もしい。
ただ、私にだけは、少し違う瞳で見つめて下さる。

不意に背中から肩と腰を引き寄せられて、兄上の腕の中に収まる。やわやわと大切に抱きとめられた。
何かあったのだろうかと兄上に頬を寄せると、腰の辺りに当たるものがある。
それだけで気付いてしまった。兄上はずっと堪えておられるのだと。

「…信綱兄上」
「すまない。堪え切れず…情けない限りだ。こんな兄を許して欲しい」
「そのような事を仰らないでください。兄上も私と同じと知れて、嬉しいです…」
「自分だけだと、思っていたか?」
「私ばかり…はしたないと恥じておりました」
「昌幸」
「…私の準備は整うてございます。兄上のお顔を見てから、ずっと」
「お前は…、全く…」

人払いをしていたとはいえ、それからの流れは早かった。互いに欲情をしていた事を告白してしまえば、もう止められない。




互いにどれだけ堪えていたのだろうか。
口付けは優しいものから、激しいものに変わり兄上に喰らい付かれる。
湯船の手摺と壁に手を着く。前戯などはなく、顎を掴まれて口付けられながら、兄上の太い指が私の中を広げていく。
激しい口吸いに私の息も上がり、兄上の熱い眼差しを見る度にきゅうと中の指を締め付けてしまう。こんなにも激しく求められた事などあっただろうか。
指が増やされ激しく抜き差しされる度に感じてしまい、肩が震える。
足の痛みなどもう忘れてしまっていた。腰は兄上に支えられているが、だがもう立っていられない。

「ぁに、ぁ、ぁにうえ、あにうえぇ…」
「まさゆき」
「っん…っん…ぅ!!は…っぁ、ぁ…っ」

以前、褥を共にした時は終始優しく蕩かされるように甘く私を抱いて下さった。
今宵の兄上に余裕は感じられない。
程なくして当てがわれ、一気に奥まで挿入され、入れられただけで私は果ててしまった。
私が果てた事できつく締め付けてしまい、兄上が呻く声が耳元で聞こえた。

「ぁに、ぅえぇ…」
「っふ…、昌幸、まさゆき」
「あっ、ぁ、っぁ…っ」

私の体が落ち着くのを待たず、兄上が腰を強く掴む。欲情のままに激しく貫かれて、抽迭の度に中から聞くに耐えない水音が響いていた。肌と肌がぶつかる音も聞こえて頬を染める。
兄上が欲望のままに私を抱いている。兄上がこうも欲望のままに私を抱くなど、初めてだった。

声が我慢出来なくて、肩にある兄上のお顔にに頬を寄せた。気持ち良すぎて生理的な涙が止まらない。激しい抽迭で幾度か果てているのだが、兄上の動きは止まりそうにない。寧ろ激しくなるばかりであった。
果ててしまうと声が堪えきれない。あにうえとしきりに呼ぶと、それに気付いて下さり、口付けてくれたり、口の中に指を入れて声を抑えて下さった。
時折、腰を撫でられて、それだけでも反応してしまうほど過敏になっている。

「ぁ、っ、あにうえ…ぇ」
「…昌輝に嫉妬してしまうなど、わしもまだまだだ…」
「え…?」
「お前達が仲が良いのは知っている。仲が良いのは良い事だ。わしも嬉しい。故にそなたと共に長く居れる昌輝が羨ましくもある」
「…あにうえ…」
「すまない。わしは随分心が狭いようだ」

また噛み付かれるように口付けられて、背後からぎゅうと抱きとめられた。
信綱兄上が悋気を告白するなど初めてだ。故にこんなに求められたのだろうか。今宵は初めての事ばかりで受け止めるのがやっとだ。
壁に置いていた手がずり落ちて支えていられない。その手を兄上が上から重ねて指を絡めてくれた。
無骨で優しい手。兄上の手に思わず口付ける。

「ぁ、ぅ…ぅっ…!」
「また、果てたのか…昌幸」
「だっ、て…、あにうえ、ぇ…」
「今宵はこれで終いだ。また…な?」
「っひ、ぅ、ぁっ、っ…、あに、うえぇ…っ」

優しく背後から口付けられて惚けていたら、諸手で腰を掴まれて、本格的に抽迭が始まった。今までも激しかったのに、あれは本気ではなかったのか。
いつもなら、私を感じさせるべく加減して抱いて下さっていたのだろう。
この腰の動きは、兄上が中に果てるが為に急いているように思えた。女であれば孕ませてやるとでも言わん限りの抱き方だ。
壁に手を着くだけで精一杯で、最早私の脚は浮いている。
がつがつと奥ばかりを突き上げられて、一番奥に腰を進められ、兄上に肩を噛まれた。
じわりと腹の奥に出される感覚に、私を思うままに抱いて下さった幸福感が溢れる。

「っふ、…は、まさゆき」
「っは…、ぁ…は、い」
「…愛している」
「あにうえ、私、わたしも…」

幸福感で心が満たされる。兄上が愛おしくて堪らない。堪らなくお慕いしている。
兄上に中を充たされて、頬を寄せて兄上の頭を撫でた。己の下腹を撫でて、兄上の手に触れる。兄上のがこんな奥に入っている。

「あにうえ…」
「まさゆき…、加減が出来ず…すまない。辛くなかったか?痛くなかったか…」
「兄上がいっぱい…、こんな奥まで…」
「…こら、昌幸。煽ってくれるな…止められなくなる…」

兄上も相当、溜まっていたのだろうか。
涙でしとどに濡れた私の頬を撫でられながら、兄上は全て私の中に果てて下さった。
名残惜しく抜かれても、まだ腹の奥を貫かれている感覚が拭えない。余韻に思わず下腹を撫でた。
立っていられなくて兄上に抱きとめられて背を預けた。尻から白濁とした兄上のが脚を伝っている。
そのまま抱きとめられて、兄上の膝の上に腰を下ろした。

勢いのまま、たった一回の接合ではあれど、長くて激しくて、私は今回もまたすっかり兄上に蕩けさせられてしまった。
兄上に目尻を撫でられて、ちうと優しく口付けられる。欲情に塗れた熱い眼差しは収まり、兄上のいつもの優しい眼差しが戻っていた。

「大分無理をさせてしまった。待ってろ直ぐ」
「いいえ、このまま…、このまま、眠りとうございます…」
「…ならん。其れを留めたままでは、体を壊しかねん」
「…私が寝込んだら、兄上が看てくれるでしょう…?」
「…昌幸」
「兄上の余韻に浸りたいのです…」
「わしが居るのに、余韻を取るのか?」
「だって…凄かったのです…、あんなの、初めてで…」
「っ、お前は、またそうやって…」

兄上が頬を赤らめて頭を抱えていたのが可愛らしく思えた。
それからの記憶は、うつらうつらとしてしまって朧気であった。
未だ中を貫かれているのではないかという、余韻がある。
兄上に甲斐甲斐しく世話をしてもらい、結局私の望み通りに後処理は最低限にしていただいた。




身形を整えられ、兄上に横抱きに抱えられて寝室に戻ったのを何となく覚えている。
ゆっくりと兄上に床に寝かせられて瞳を細める。
やはり昌輝兄上は待ちきれなかったのか、先に寝入ってしまっていた。

昌輝兄上の頭を撫でて、信綱兄上は微笑んでいた。
信綱兄上は昌輝兄上の肌蹴た布団を掛け直すと、我らの真ん中に横になり、私を引き寄せた。兄弟の誰よりも多めに布団をかけられ、ふわふわとした心地に目を閉じる。この布団は、兄上の匂いがする。

兄上の腕枕を強請ると、望み通りに腕枕をしてくれた。髪や背中を撫でられて、幸せで堪らない。
時折、兄上が私を案じるように下腹を撫でたが、それにさえ胸の高鳴りが止まらないのだ。まだ兄上に抱かれているような感覚が消えない。

信綱兄上は仰向けになり、空いた片腕を額に乗せて目を閉じていた。
もう眠ってしまっただろうかと、じっと見つめていると、腕枕をしている腕で引き寄せられる。
未だ体の熱が抜けていない。兄上の方に身を寄せると、はぁ…とひとつ信綱兄上は溜息を吐いた。

「…兄上…?」
「参ったな…」
「…?」
「お前が可愛くて…、可愛くて、困る」
「っ、あにうえ?」
「…本当は、お前を何処にもやりたくないし、わしもお前の傍に居たい」
「信綱兄上…、私もです…」
「…お前が眠るまで、こうしていよう」

兄上の本心が聞けて、息が詰まりそうだ。
やはり傍に居ない時が長かっただろうか。私は兄上の上辺しか見ていなくて、己でこうなのだろうと決めつけてしまったところがある。兄上の本心は、信綱兄上は、私が自覚している以上に私のことを愛してくれていた。
私が眠るまで、と。髪や頭、背や肩を信綱兄上は優しく撫でてくれるが、私はぞわぞわと震えてしまった。
そんな眼差しで、そんな触れ方をされては、感じてしまう。胸の高鳴りが止まらなくて眠れる訳がない。兄上の触れ方は慈しみに溢れていた。
だが今は昌輝兄上がすぐ横に居られるのだ。今はこれで堪えなければならない。寧ろ十分すぎるほどに充たされて、幸せで堪らない。

「信綱兄上…」
「ん…、っ」
「…おやすみなさい…」

私から信綱兄上に口付けて、信綱兄上の胸に顔を押し付けた。少し恥ずかしくもあったのだ。
信綱兄上は私の耳元で、ああ、おやすみと囁くと額に唇を寄せられ再び頭や背中を撫でて下さった。
そうしているうちに安堵して、兄上の腕の中でいつの間にか眠ってしまっていた。




未だ暗いのだが朝、なのだろう。戸が開けられているのか、少し寒くて布団に丸まる。
信綱兄上と昌輝兄上の声が聞こえて、目を開けずに耳をそばだてていた。
躑躅ヶ崎館ではもう起きなくてはならない刻限だが、ここは真田である。兄上達の声色を聞きながら未だ眠っていようと思っていた。

「昌幸とは、何時からです」
「何時から、とは?」
「責めている訳じゃありません。俺は軽蔑もしていませんし、兄上の気持ちも昌幸の気持ちも分かるのです」
「昌輝…、そうか。すまない」
「謝らないで下され。俺の憧れる格好良い唯一の兄上なのですから」
「ふ、それは、どうかな。わしはお前の期待に応えられそうにないが」
「何を仰る。俺の兄上ですよ」

耳をそばだてていた事を少し後悔した。
だが何処か、胸につかえていた事が晴れたような思いもある。
信綱兄上との事は誰にも話せないと二人だけの秘密だった。無論、昌輝兄上にも。
私が分かりやすかったのか、昌輝兄上が目敏かったのか、両方かもしれない。

ゆっくりと瞼を開けると、腕枕はそのままに、信綱兄上と昌輝兄上は寝転んだまま話をしていた。未だ空は暗い。
私が起きていることに、信綱兄上は未だ気が付いていないようだ。

「兄上は、昌幸には敵わないご様子」
「それは真だ。昌幸には敵わんよ」
「それほど、愛しておられるのですな」
「ああ、愛しているよ」
「はは、信綱兄上にそうもはっきりと言われれば、昌幸も幸せでしょう」

信綱兄上の思いと、昌輝兄上のお考えを聞いて、胸が温かになった。
許されるものではない、いけないことだと二人で自覚していたからこそ、昌輝兄上の理解は私にとっては救いになった。
信綱兄上とてそうだろう。昌輝兄上が私の兄上で本当に良かった。

「本当は、もっと傍に居てやりたいが…、互いに役目がある。そうもいくまい。わしが一番分かっているさ」
「されば、俺が少しでも昌幸の傍に居られるよう尽力致しますよ。兄を支えるのが弟ですから」
「お前は…全く…、昔から変わらぬな徳次郎」
「源太兄上こそ」
「ありがとう昌輝」
「はい。ああ、でも兄上」
「うん?」
「俺も兄上が好きですし、共に過ごしたいと思っております。昌幸ばかりでなく、たまには俺にも構って下され。俺とて寂しいのです」
「はは、そうか。久しぶりに狩りでも行くか?」
「良いですな。是非!ああでも、本日は昌幸の傍に居て下され。源五郎は俺より寂しがり屋ですから、泣いてしまうかもしれませんな」
「…もう子供ではありませぬ」
「!」

相も変わらず兄上達の子供扱いに眉を顰めつつ、声を上げた。ずっと聞いていたと思われても良い。
おはようと信綱兄上に頭を撫でられて、信綱兄上の肩から昌輝兄上が顔を覗かせて、おはようと少し乱暴に私の頭を撫でてくれた。
私が布団に丸まっている様子を見て、すまん寒いか?と戸をさっと閉めてくれた。
信綱兄上もだが、昌輝兄上も本当によく私を見ている。

信綱兄上に促されて、昌輝兄上の隣、兄上達に両側を挟まれる形に横になる。
昌輝兄上とも話した方が良いと、信綱兄上のお考えだろう。
昌輝兄上が元の位置に戻り、私が横に来たことに気付いて、再び肘を立てて私の隣に横になった。

「聞いていたと思うが、結構前から俺は知っていたんだ」
「…はい」
「昌幸は分かりやすかったからな。兄上の代わりにはなれんと思うていたが、俺は俺とてお前の事を大事に思っているよ」
「はい」
「だからな。俺は兄上と昌幸の味方だからな。それだけ言っておきたかったんだ」
「ありがとうございます昌輝兄上…。昌輝兄上が私の兄上で本当に…良かった…」
「泣くなよ、源五郎。俺が兄上に叱られる」

安堵してしまって涙ぐんでしまった。
兄上の前では、私はまだまだ源五郎のままである。
信綱兄上にも、昌輝兄上にも撫でられてお二人の手に頬を寄せて甘えた。

「ああ、あとな。昌幸。俺の方が四年先に兄上をお慕いしているのだからな、その辺は負けんぞ」
「わ、私とて負けませぬ。それに、昌輝兄上の事とて、お慕いしております」
「はは、そうか。だが、お前それ、信綱兄上の前で言っていいのか?」
「構わんさ。そこまで狭くない…、と思う」
「おい昌幸、兄上は怒らせるなよ。いや、お前が兄上を怒らせるとは思えないが…、兄上は本当に怖いぞ」
「…そうなのですか?」
「昌幸が知らない俺と兄上の六年があるのだ」
「一体何をやらかしたのですか昌輝兄上…」

信綱兄上は私より十も上、昌輝兄上は四つ上の兄上である。
故に、私の知らない兄上を知っているのだろう。そういう所は素直に羨ましかった。

信綱兄上は昌輝兄上とのやり取りを目を細めて聞いていた。信綱兄上は兄弟の中では寡黙な方である。
お館様にはお話出来ないが、この話は今回のお使いで一番の成果だったかもしれない。
信綱兄上の手に擦り寄ると、やはり愛おしげに私を撫でて下さった。
空がようやく明るくなっていた。




善光寺に信親様が向かっていると、信綱兄上宛に義信様が文をくれたという。
海津城に居られる高坂昌信様が目付け役とのことだが、弟が其方を尋ねた時はよろしく頼むと、義信様の文にはそう書いてあった。

信親様は、盲目の勝頼様の兄である。
私も幼い頃から四郎様と同様に、随分優しく接していただいた思い出がある。
歳が近いからか、昌輝兄上と懇意にされていた記憶がある。

朝餉を終えて、身形を整えたものの、私は略装で良いとゆるりとした物を与えられた。
信綱兄上も略装であったが、昌輝兄上は正装である。
信綱兄上は未だ上田や真田から離れられない。故に信綱兄上の名代として、昌輝兄上が信親様の善光寺参りの供をしてくると言う。
私もお供をしたかったが、いやお前はいいよと昌輝兄上に額を小突かれてしまった。
一日二日で直ぐに戻られるとの事で、信綱兄上が信親様にと、真田の栗や野菜を昌輝兄上に包んで渡していた。

「すまないが、昌輝。よろしく頼む」
「承知仕りました兄上」
「昌輝兄上、お気をつけて」
「ああ、俺も久しぶりに信親様にお会いしたかったのでな。では、行って参ります」
「ああ」
「行ってらっしゃいませ」
「なぁに、俺がいない間に、昌幸は存分に兄上に甘えたらいいさ。兄上も」
「っ」
「ああ、そうしようかな」

昌輝兄上は私達を構うようになった。そして信綱兄上は好意を隠そうともしない。嬉しくもあるが、兄上二人には困ってしまう。
朝早く善光寺に発つ昌輝兄上を見送り、再び信綱兄上と屋敷に戻った。

昌輝兄上が居ないと少し真田が静かで寂しい。
そして信綱兄上と、二人きりである。


こうもお膳立てをされて二人きりにされたのは初めてである。
昨夜のこともあって、やはりしゃんとしていられず、兄上に甘えるようにして部屋で横になっていた。
板間では痛いだろうと、再び布団を敷いて横に寝かせて下さった。
事後処理は、兄上達が支度をしている最中に卒なく終えているのだが、やはり昨夜は激しかった。一回しかしていなかったのに、こうも腰が砕けるとは思わなかった。

「大丈夫、ではないな…。体は痛むのか…」
「痛みはないのですが…、腰が…」
「っ、加減が出来ず、すまなかった」
「いいえ…、とても、嬉しかったのです」

本日はずっと傍に居ると、信綱兄上は約束して下さった。
たまに執務で筆を取ったり、来客の為に部屋を開けることもあったが、基本的には屋敷から出ることはなかった。部屋から席を外したとて、兄上は直ぐに戻って来てくれた。

昼を過ぎて少しは歩けるようになり、兄上に支えられながら郷を歩いた。
寒くないようにと兄上の上着を貸し与えられ、腰に手を回されて郷を歩く。
兄上とこうして、ゆるりとした時を過ごせるのが嬉しい。余り覚えていないけれど、どうにも懐かしい真田の郷の風景を兄上と見られるのは嬉しかった。
私がじっと景色を見つめていれば、信綱兄上がその場所の話をしてくれた。
民からの評判もよく、信綱兄上の姿を見られるなり民は深深と頭を下げていた。信綱兄上は、良き次期当主で在られると殊更にそう思う。私がお支えしようと強く思った。

日が暮れる前に屋敷に戻り、夕餉の支度を手伝った。今宵は鍋であるという。
信綱兄上に、兄上の家臣団の紹介をされて深深と頭を下げた。皆、歴戦の武士の顔をしていらした。
白川殿などは御兄弟で信綱兄上に仕えていると聞き、私からも日々の礼の言葉を述べた。これからも信綱兄上の傍でお支えして欲しいと強く思う。
同時に、羨ましくも思った。

家臣団と酒宴を催していただいたが、戌の刻にはお開きとなった。
信綱兄上が湯に行っている最中、私は一人寝室を整えていた。無論、本日も信綱兄上と一緒に寝たいと願ったのだ。
それに今宵は、二人きりである。昨日の今日でとも思うが、期待をしないと言えば嘘になる。

兄上の上着を肩に掛けて、月を見上げる。
真田の郷は空気が澄んでいて星が綺麗だが、夜は冷える。
未だ季節柄、出してもらうのは早いのだが火鉢を用意してもらった。
寒がりだからと兄上が用意して下さった火鉢に落ち着いていると、風呂上がりの兄上が戻ってきた。

「行っておいで」
「はい」
「一人で行けるか?」
「い、行けます。何です兄上まで」
「昨日の事があったからな」
「っ」
「待っているから、行っておいで」
「はい」

私を優しく見つめる信綱兄上の瞳に確かに熱を感じ取った。
今宵もきっと、信綱兄上に抱かれる。
信綱兄上は、ほろ酔いなのだろう。湯船に当てられて酒が上がったのか頬が赤くなっていた。兄上のそんな所が可愛らしいと思う。

湯船に浸かり、ゆるりと体を流した。
首筋にぴりりとした痛みを感じ、昨夜兄上に噛まれたことを思い出した。此処に手を着いて兄上が、昨夜を思い出して頬を染めた。
私も随分、期待をしてしまっている。丸一日二人きりであったから、嬉しくてたまらないのだ。

私の髪は兄上より随分と長い。真ん中から白と黒に分かたれた珍しい髪質だ。
幼い頃から誰かしらこの髪の事で陰口を言われているであろう事は、何となく察していた。直接言われたことがない。
というのも、父上や兄上達が幼い頃から私を庇護してくれたからだ。その髪…と誰ぞが口走る前に、物凄い殺気を兄上から感じた事がある。昨今は勝頼様や昌次も、兄上達のように庇ってくださる。
私ももう子供ではないのである程度は無視出来るのだが、それでもそうして守ろうとしてくれる家族や方々が居るのは幸せな事だった。

白と黒の髪と言えば、信綱兄上も同じであった。信綱兄上は所々、毛先だけ髪が白い。
お揃いだな、わしより綺麗な髪だと。小さな子供の頃に兄上に優しく髪を撫でて頂いたことを今でも覚えている。
あの頃からずっと、兄上をお慕いしている。

一通りの事を終えて、髪を丁寧に洗い流した後、信綱兄上の居られる居室に戻った。
厨を通りすがる際に、菓子と茶を頂いた。おぼんに乗せて運ぶ。
一声掛けてから戸を開けると、敷布の上に信綱兄上は胡座をかいて座り、書物に目を通していた。
私の姿を見ると書物を閉じて、腕を広げて私を見上げている。

「おいで」
「兄上」

おぼんを卓に置いた後、兄上の腕の中におずおずと飛び込み、抱き締めていただいた。兄上からも湯の良い香りがする。
頬を擦り寄せると兄上が額に唇を寄せてくれた。兄上は額に口付けるのが昔からの癖だ。

「菓子と茶を頂いたのです」
「そうか。一緒に食べよう。ひとつは、昌輝に取っておこうか」
「はい」

菓子をひとつ懐紙に包み、これは昌輝兄上にと箱に収めた。
実は今日一日、菓子やら何やら色々と貰っていた。その度に、今は善光寺に居られる昌輝兄上の分を私の分から取っておいていたのだ。それに気付いた信綱兄上が昌輝兄上の為の箱を用意してくれていたのだ。

兄上に促されて、背を預けて座る。私の前には火鉢を置かれて、背中には兄上が居る。とても温かくて安堵できる。
兄上に菓子を差し出すと、そのまま顔を寄せられて私の手から菓子を頬張った。
私が兄上に甘えるように、兄上も私に甘えてくれているのだろうか。思わぬ仕草が可愛らしくて微笑むと、兄上も菓子を差し出してくれた。
私も兄上の真似をして、兄上の手ずから菓子を頬張る。兄上も私と同じように優しく微笑んでくれた。
口元についていたのか、菓子の欠片を指で拭われて、兄上はそのままぺろりと指を舐めた。その仕草にぞくりと背筋がざわつく。

茶をすすり、ほうと息を吐くと、兄上がじっと私を見つめていた。
視線に気付いて兄上を見上げると、優しく頬を撫でられる。私からもその手に擦り寄り目を細めた。
互いにきっかけを探しているが、こうして触れられているだけでも十分幸せだった。

今日は兄弟としても嬉しくて、恋仲としても贅沢過ぎる一日だった。ずっと満たされている。離れていた分の寂しさはすっかり信綱兄上が満たしてくれた。
昌輝兄上が気を使ってくれたのも大きい。昌輝兄上が認めて下さったから、信綱兄上とこうして過ごせるのだ。

兄上の腕の中で向き直り、兄上を正面から見上げた。兄上は肩を撫でて、また頬を撫でて下さる。
兄上は本当に格好良い。男の私から見ても男前で、本当に惚れ惚れする。じっと見つめていたら、頬を撫でていた手が首筋を撫でた。肩に歯型がある。

「痛かっただろう?」
「へいきです…」
「すまなかったな」

すり、と首筋を撫でられてくすぐったい。
今日は兄上に触れられてばかりいるからか、手を出されると撫でられ待ちをしてしまう。
兄上は期待通りに撫でて下さるから、私も甘えてしまう。

兄上にもっと触れたい。触れて欲しい。
そう思い首に腕を回して押し倒す勢いで飛び付いたのだが、兄上にしっかり支えられてしまいびくともしなかった。
むっと唇を尖らせていると、ああそうかと私を胸に抱いて寝転んでくれた。

「それでは意味がないのです兄上」
「こうしたかったのではないのか?」
「そうですけれど…」
「お前が小さな頃を思い出すな。こうして高い高いって抱き上げてたんだ」
「私も覚えています」

兄上は私を胸の上に抱き上げて、頭や頬を撫でて下さった。
胸をつけているから、兄上の鼓動も聞こえる。私の鼓動も兄上に伝わっているだろう。
意を決して私から兄上の手を握り、したい、と小声で訴えた。

指を絡まれて触れられ、兄上が上体を起こしたので体勢が反転してしまった。
兄上に押し倒される形になったが、頭をぶつけぬよう、首を支えられて寝かせられる。
唇を指で撫でられて、ちうと一度口付けられた。

「いいのか」
「はい」
「わしも、そう思っていた」
「沢山、したいです…今夜はずっと」
「そんな事を言って…、良いのか?」
「っ、はい」
「覚悟せよ」

兄上の眼差しに熱がともる。
今まで潜められていた兄上の欲情を感じながら、深く甘く口付けられる。
そのまま胸や首筋に吸いつかれ、兄上の愛撫に身を委ねた。

「昨夜は随分、乱暴にしてしまったからな…。わしらしくもない」
「兄上はいつも…堪えられていたのですね」
「ああ…、勿論。お前を傷付けたくないから、抱き潰すような事はせん」
「っぁ、…私が、して欲しいと言ったら?」
「それは、それだ」

柔柔と素肌に触れられ、吸いつかれて声が漏れる。自分の声が恥ずかしくて思わず口元に手をやったが、兄上に手を退かせられてしまった。
今宵は何も我慢しなくて良いと、わしも我慢は止めたと言って微笑む。兄上のその優しい瞳に確かな欲情を感じて体が火照るのを感じた。




愛撫だけでどれだけ蕩かされただろうか。
息をするように口付けられ、前も後ろも触れられてぐずぐずになっている。
昨夜のように乱暴にして欲しいとも思っているのだが、兄上が本意ではないのだろう。
爪先に至るまで徐々に追い詰められていく心地に、ぞくぞくと背筋が震える。
段々、兄上のものになっていく。そんな気がして首に腕を回した。
強く急いた快楽は与えられず、ひたすらに優しくとろとろと蕩かされていく心地がした。

「まさゆき」
「っ、ぁっ…、あにうえぇ…」

兄上が耳を食み、私の名を囁く。
どれぐらいこうして触れ合っていたのか分からない位に愛撫されていたから、指はもう三本飲み込むようになっていた。
後ろだけで果ててしまうように慣らされてしまった為に、静かに声を上げずに既に幾度か私は果ててしまっていた。
と言っても吐き出してはいない。中だけで果ててしまった故に、体はもうずっと過敏になっていた。
こうしてずっと優しく触れられていたから、兄上に触れられるだけで感じてしまう。
無論、私が静かに果てていることに兄上も気付いていた。その度に動作を止めて、私が落ち着いたらまた優しく触れて下さるのだ。
身も心も、今は信綱兄上の事しか考えられなくなっていた。

指を絡めて私より大きな手を握り、二人とも横になって口付けを繰り返した。
着物ははだけていたが、はだけたまま兄上に足を絡める。好きで好きで堪らない。

「あにうえ、あにうえ…ぇ…」
「愛しているよ」
「はい、はい…、愛しています」

唇を食まれながら、兄上に指を抜かれて吐息を吐く。
口癖のように幾度となく伝えられた思いに思わず涙が溢れる。その涙も指や唇で兄上が拭ってくれた。
ころりと体勢を変えられて、兄上に背中から抱き締められる。同時に当てがわれゆっくりゆっくりと繋がっていく。
兄上のは大きくて固い。私の中いっぱいに兄上を感じてきゅうと締め付けると、背後から抱き締められて耳を噛まれる。

「まさゆき」
「はっ、…ぁ…、ぅ…兄上…」
「熱い…、余り締め付けてくれるなよ。今宵はじっくり抱いてやるのだから…」
「兄上に…、蕩けてしまいます…」
「もう十分…、蕩けているではないか」

腰から手を滑らせて前に触れられる。
兄上にそのような触れ方をされたら、どうしようもなく感じてしまう。
片脚を上げられてゆるゆるとした抽迭が始まり、身悶えて兄上の片腕に頬を擦り寄せた。
兄上の腕枕に縋るようにしていたら、そちらの手が私の頭を撫でる。
ぐっ、ぐっ、と激しくはなくとも深い抽迭に全身が痺れた。やはりどうしても、きゅうきゅうと締め付けてしまい、私は先に果ててしまった。
くたりと腕枕に首を擡げていると、兄上が背後から顎を掴み私に口付けた。

兄上が悪い。兄上がこんな、こんな抱き方をするから、過敏に感じてしまって、こんな。
暫くの間、柔い抽迭を繰り返され、もどかしさに私が激しくしてと強請れば兄上は答えてくれた。
幾度も果てさせられて、兄上も私の中に果てる。体位を変えて何度も何度もゆっくりじっくり繋がった。

「あにうえ、だいすき、あにうえ」
「っ、昌幸、お前なんて顔で…」
「?」
「そんな顔、誰にも見せてはならん」

どんな顔をしているのだろう。
私の頬を撫でて、兄上も頬を赤らめてしまった。そんな兄上が愛おしくて首に腕を回し、腰には足を絡みつけた。
ずっと一緒に居たい。互いにそう感じて、本当はいけないことだと心の奥底ではそう思いながらも、信綱兄上と深く深く一晩中愛し合った。

鳥の声に目を細める。もう夜明けだ。
兄上に抱きすくめられて、とても温かい。公言された通りに兄上に一晩中抱かれて、私が極まってしまい意識を飛ばす形で長くて幸せな情事を終えた。

「あに、うえ…」
「…昌幸…、大丈夫か?」
「はい…、あにうえが、おられるから」
「離れるものか」

目が覚めたら、随分と声が掠れてしまった。
兄上の胸に頬を当てて寝入っていたようだ。兄上が頬を撫でつけてくれた。
けほ…とひとつ咳き込むと、兄上が竹筒を手に取られて唇に当てがってくれたが、腰が立たず上体が起こせず上手く飲めない。
見兼ねた兄上が水を含み、口移しで水を飲ませて下さった。

「は…ぁ…」
「もっと飲むか?」

上目でこくりと頷くと、もう一度口移しで水を飲ませて下さった。
水がなくなっても、私が口付けを求めて舌を絡めたからか、唇は離されない。
深く甘く口付けられて、蕩けるようだ。もうとうに兄上に蕩かされて体が大変なことになっている。あちらこちらと吸われて兄上の痕だらけだ。兄上の所有の証である。
見られても良いとは思えども、やはり誰にも見せられない。

今日はゆっくり過ごそう。兄上は元々私達が来ることを見込んで、今日も重要な伝令以外は誰も通さぬよう取り計らっていた。

未だ兄上と繋がっているような感覚がある。事後の余韻がいつまでも止まらない。
私が女子であれば、とうに孕んでいるだろう。そのような抱き方だった。
本当に一晩中、兄上と繋がって抱かれて泣かされてしまった。
私を見つめる兄上の瞳が忘れられない。

「少し休んだら、一緒に湯に行こうか。連れて行ってやるからな」
「はい…。あにうえ、あの」
「うん?」
「きょうもずっと、いっしょに、いてくださるのですね」
「当たり前だろう。こんな…誰にも見せられぬよ」
「あにうえの、せいですよ…?」
「っ、それは、そうなのだが」
「ふふ、あにうえ…、だいすきです、あにうえ」
「ああ、愛しているよ」

幸せで堪らない。思わず涙を零すと兄上が抱き締めて下さった。
大切に大切に、宝物のように壊れ物のように、怖々と兄上に抱き締められて、幸せで堪らなかった。




兄上と一緒にひとつの布団で昼前まで眠り、足腰の立たない私の代わりに兄上が色々と面倒を見て下さった。一緒に風呂に入ったり、着替えを手伝ってもらったりと、私には何一つさせないといった扱いであった。

「腹は減っていないか?何かつまめる物を持ってこようか」
「あにうえ。りんごが、たべたいです」
「ああ、あれか。作ってやろう」

何よりも嬉しかったのは、兄上が林檎煮を作ってくれたことだ。小さな子供の頃に、父上が居ない事が多かったから、半分兄上は私の親代わりでもあった。
その頃によく作ってくれたすりおろしの林檎煮が甘くて美味しくて、もっとたべたい、にいにつくって、りんごつくって、とよく強請っていたものだ。
今となっても、あの林檎の味が忘れられなくて、懐かしくて。兄上は私と会う度に作って下さるのだ。

「美味いか」
「おいしい」
「それは良かった」
「あにうえが、つくってくださるから、おいしい」
「ふ、そうか。これは今年の林檎だぞ」
「おやかたさまや、かつよりさまにも、おもちしたいです」
「そうだな。では葡萄と桃の御礼に林檎を包もうか。昌幸が持って行ってくれ」
「はい」

今日もまた、兄上と緩やかな時を過ごした。
昌輝兄上から文が届き、今宵に戻られるという。昌輝兄上には感謝しかない。
そう言えば昌輝兄上も信綱兄上と過ごしたいと仰っていた。きっと信綱兄上と狩りにでも行きたいのだろう。昌輝兄上に付き合える者は多くはない。対等以上に付き合えるのは信綱兄上くらいだ。

「兄上」
「うん。少し声が戻ってきたか?」
「はい。あの、兄上、明日は昌輝兄上と狩りにでも行かれてはどうでしょうか」
「ふむ。昌輝を誘ってみようか」
「はい。私は屋敷でお待ちしております」
「昌幸は来ないのか?」
「兄上達には誰も追いつけませぬよ。それに昌輝兄上も、兄上と共に過ごしたいと仰っておりましたから」
「そうか。寂しくはないか?」
「兄上は、寂しいのですね」
「…そうだな。少し寂しいかな」

兄上が何処に行くにも私を伴ってくれる事がとても嬉しい。
そして私が居ないことを寂しく思ってくれることがとても嬉しかった。
されとて、信綱兄上と昌輝兄上の狩りは激しく山を駆け抜ける為に、私ではとても追いつけないのだ。それに何よりもっと原因がある。

「…何より、兄上。足腰が未だ立ちませぬ」
「…それも、そうだな」

すまない、と私を撫でて兄上は赤面していた。そんな兄上の膝にころりと寝転び、撫でて下さる手に甘えて微笑む。
兄上の膝は固いけれど、とても安心出来る場所だから居心地が良かった。




日が落ちた頃に昌輝兄上が帰ってきた。
手には土産を携えて、上機嫌のご様子だった。
お前は休んでいなさいと兄上に止められたのだが、昌輝兄上を直接お出迎えしたくて信綱兄上について行った。
やはり信綱兄上と、昌輝兄上と、三人で共に過ごしたいのだ。兄弟なのだから。

「ただいま戻りました」
「御苦労だったな、昌輝」
「は、信親殿が兄上にと」
「ああ」

信綱兄上に昌輝兄上が手土産を渡していた。
信親殿からの品に加えて、善光寺参りついでに色々品を手入れたようだ。
食料に、武具に、私達には善光寺の御守りを下さった。
父上達にも持っていこうと揃いで手に入れたらしい。昌輝兄上の土産品は家臣の皆が運んで行った。

「昌輝兄上、お帰りなさい」
「ああ、昌幸、ただいま…。…うん、待て、待て、一寸来い昌幸」
「はい?」
「兄上も」
「ん?おう」

戸口にて、信綱兄上と共に昌輝兄上をお迎えすると、私の顔を見るなりぎょっとされていた。
昌輝兄上は、私と信綱兄上を引き連れて奥の部屋に連れ込まれた。

「お前、なんて顔をして。兄上もお止め下さい。皆に見せてはなりませぬ」
「?」
「故に止めたのだが」
「昌輝兄上をお出迎えしたかったのです」
「…お前は本当に、可愛いな」
「そんな事ありません」

昌輝兄上に頭を撫でられて目を細めていたが、私の傍で信綱兄上が眉を顰めているように見えた。
おっと、と呟いて、昌輝兄上が直ぐに私から手を離した。

「昌輝兄上?」
「これは失礼しました、兄上」
「否、別に構わん。すまない、お前に隠し事は出来ぬようだ」
「昨夜はさぞ、お楽しみだったようで」
「その言い方は寄せ」
「昌幸とゆるりと過ごせましたか」
「ああ。お前のお陰だ」

溜息を吐き眉間を抑えて俯いていた信綱兄上に、笑いながら昌輝兄上が脇腹を小突いていた。
良かった。兄上達の間で諍いが起きてしまうのではないかと心配してしまった。

未だ本調子ではなくて足元をふらつかせていたら、凭れ掛かるようにと信綱兄上が抱き留めてくれた。大丈夫かと、信綱兄上に頬を撫でられて目を細める。
そのままの体勢で昌輝兄上を見上げる。

「昌輝兄上のお陰で、信綱兄上とゆるりと過ごすことが出来ました。感謝致します」
「俺も信親殿にお会いしたかったからな。おあいこだ」
「そうなのですか?」
「お前が勝頼様と懇意なように、俺とて信親殿とは親しい間柄だと思うている。兄上とて、義信様と懇意だ」
「それは、何よりなことです」
「さて、俺は疲れました。今宵は直ぐに休もうと思います」
「ああ、御苦労だった」
「昌輝兄上、共に夕餉に致しませぬか。それに、また一緒に寝ませんか」
「俺は良いが、兄上がどうかな」
「構わんさ」

信綱兄上は私の頬を撫でた後、昌輝兄上の肩を叩いた。
わしも三人で過ごしたいと思っていたという信綱兄上の微笑みにほっとする。

私の顔を家臣らに見せられないと、信綱兄上も昌輝兄上もそう言って、兄弟三人で囲炉裏を囲んだ。
お疲れで眠そうな昌輝兄上を気遣って、食事も風呂も手短に済ませて先ず何より先に昌輝兄上を優先して事を終えた。

また兄弟三人で川の字で眠れるように布団を敷いてもらった。信綱兄上にお願いして、私を真ん中にして頂いた。兄上達を両側にして、真ん中で眠りたかったのだ。




信綱兄上が湯浴みをされている。
その間、私と昌輝兄上は既に布団に横になりうとうととしていた。
昌輝兄上の為に取っておいた菓子などの話をしたら、おいでと昌輝兄上に寝転ぶように腕枕をして下さった。

「昌幸」
「はい」
「あのな。兄上とのことは、秘密だぞ」
「勿論です。誰にも言うつもりはありません」
「それとな、俺はお前の味方だ。兄上の味方でもある。昌幸の事も、兄上の事も、俺は大好きだ」
「ありがとうございます。私も大好きです」
「ああ。信綱兄上の次くらいだと嬉しいなぁ」
「あ、あの」
「今戻った」

信綱兄上が髪を手拭いで拭きながらお戻りになった。まだ髪も肌も濡れていて、急いで出てきたのではないかといったご様子であった。

「昌輝、昌幸を苛めるなよ」
「人聞きの悪い。そんな事したことないです」
「お前はそれを源五郎に聞いて、困らせて泣かせていただろう」
「そんな事もありましたな」

小さな頃は昌輝兄上によく、俺と信綱兄上とどちらが好きだ?と聞かれて、どちらも好き!と言っているのにどちらか選べと詰め寄られて泣いてしまったのだ。
どちらも好きなのに、大好きなのに、って泣きながら昌輝兄上を小突いた信綱兄上に抱き留めて貰ったことを覚えている。

荒々しく髪を拭きながら信綱兄上が私の隣に胡座をかいて座った。身を起こして手拭いを受け取り、兄上の御髪を丁寧に拭く。
拭き終わった後に手を取られて、ありがとうと信綱兄上に頬を撫でられる。

そのまま兄上に促されて、兄上の膝に寝転ぶ。湯上りで熱り、信綱兄上は未だ横にならないようだ。

「父上から聞いたぞ。馬を借りたのだろう。帰りに昌景様に礼状を渡してくれぬか」
「はい」
「それと、父上に文を届けて欲しい」
「承知しました」

兄上達のやり取りを片耳に聞きつつ、うとうとと目を閉じていた。
耳に聞こえる兄上の声が心地良い。それに兄上に頭を撫でられているからか安心する。
つんと頬を突かれて目を開けると、昌輝兄上が私の頬をつついていた。
む…と眉を顰めると昌輝兄上にも頭を撫でられる。その後、信綱兄上にも撫でられた。
お役目の話から次第に、私のことを話しているようだった。

「いつからだ」
「実は、もしやと結構前から感づいておりました」
「そうか。気取られぬようにしていたのだが、わしもまだまだだな」
「兄上より、昌幸が分かりやすかったですね。躑躅ヶ崎館でよく兄上の話をしているのを耳にします」
「そうか。寂しくさせているかな」
「俺がそうさせないと見てはいますが、俺ではやはり兄上の代わりにはなれません。兄上でないと」
「昌輝がいて良かった。お前の事をいつも尊敬し感謝していると、昌幸が文に書いていたぞ」
「はは。俺とてそう思うのです。昌幸はさぞや可愛いでしょう、兄上」
「可愛くて、たまらないよ」
「俺も、そう思います」

信綱兄上の言葉に顔が熱くなる。昌輝兄上もまた笑って、私を撫でた。
正直、恥ずかしい。されども、私も兄上達の事が大好きだ。
私を撫でるお二人の手を取り頬に当てた。信綱兄上の手には唇も寄せた。
お二人の事は同様にお慕いしているが、やはり私の中で信綱兄上は特別だった。

そっと頭を支えて、私を膝から床に寝かせると、ひとつ欠伸をして信綱兄上が横になった。
掛け布団は三つ。兄上に布団を掛けられて目を閉じる。
おいでと信綱兄上に促されて、信綱兄上の腕枕に甘える。やれやれと昌輝兄上が笑っていた。信綱兄上は昌輝兄上も引き寄せていた。
私のすぐ傍に昌輝兄上も来て下さって、兄上達に挟まれてとても嬉しい。

「明日は狩りに付き合え、昌輝」
「何と、兄上からお誘い頂けるなんて光栄です」
「昌幸に、馳走を振舞ってやろう」
「承知。お供仕ります」
「楽しみにお待ちしています」

そろそろ、甲府に帰らなくてはならない。真田に居られるのもあと数日であろう。名残惜しいが、明後日くらいには発たなくてはならないのではないかと考えている。
信綱兄上からお役目も承ったのだ。父上にも昌景様にもお会いしなくてはならない。
本当に、名残惜しい。

灯が消されて、月明かりだけが差し込む。
昌輝兄上の寝息が聞こえて、肩からずり落ちていた布団を信綱兄上がかけ直した。
昌輝兄上は私にくっつくようにして眠っていた。確か昌輝兄上は何か抱いていれば寝相を抑えられると言っていた。それが私とは思わなかった。ふふ、と微笑み昌輝兄上の頭を日頃のお返しに撫でた。

ちう、と額に口付けられて目を細める。
信綱兄上に頬を撫でられ、優しい眼差しが私を見つめていた。

「眠いのだろう。手が温かい。ほら、もう、おやすみ」
「はい…」
「愛しているよ」
「はい、兄上。私もです」

お慕いしている信綱兄上と、大好きな昌輝兄上と。二人しかいない私の兄上達とのひと時が幸せで堪らない。
ずっとこうして居られたら良いのに、という言葉を飲み込み、あと数日の真田の郷を存分に信綱兄上と、昌輝兄上と過ごした。


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