はなみに

早く行かないと雨が降ってしまう。
朝のお務めを終えて、手習いも終えた。
早く行かなくては、間に合わなくなってしまう。
しかし、私ひとりでは館から出る事が出来ない。
門前で立ち止まり、どうしてくれようと頭を抱えた。

「どうしたんだ、昌幸。そわそわして」
「勝頼様」

勝頼様が私を気にかけて声をかけて下さったが、今は申し訳ないが勝頼様の御相手をしていては空も時も間に合わなくなってしまう。
勝頼様にご迷惑をかける訳にはいかず、石垣の隙間はないものかと塀をさまよった。
探したが、やはり隙間はない。

「昌幸」
「勝頼様」
「外に出たいのだろう?私も行こう。私が一緒なら門番も何も言わぬ」
「ですが、それでは勝頼様がお叱りを受けます」
「普段、生真面目な昌幸の事だ。何か外に理由があるのだろう。父上とてお叱りにはならぬ」
「されど」
「大丈夫だ。私は昌幸の味方だからな」

追いかけてきた勝頼様が私の手を取り、門番に話を通してくれた。
門の外に出て空を見れば、雲が黒くなってきた。急がねばならない。

「ありがとうございます。勝頼様」
「うむ。何処まで行くのだ?」
「直ぐ近くの川辺に、花を摘みに参ります。もうすぐ雨が降るでしょう。勝頼様は此処でお待ち下さい」
「しかし、それでは昌幸が濡れてしまうかもしれぬ。傘を持とうか」
「それでは間に合いませぬ。御免」
「昌幸!ああ、行ってしまった」

ただでさえ御迷惑をお掛けしているのだ。勝頼様を濡らす訳にはいかない。
勝頼様に深く頭を下げ、近くの川辺に走った。

菜の花、菜の花。
父上の大好きな菜の花を摘みに走る。

下流まで走り、漸く黄色い花畑を見つけた。
ほっと安堵の溜め息を吐いて、菜の花を摘んでいく。

刹那、頭上で雷が鳴った。
稲妻の轟音と共に、大雨がざあざあと音を立てて降ってきてしまった。
せっかく摘んだ菜の花が駄目になってしまう。
上着を脱いで菜の花を包み、館へと走った。
濡らさぬように、枯らさぬように。
菜の花を上着で包んで大切に抱え込み、雨の中を歩いた。

「ただいま戻りました、勝頼様」
「昌幸!ああ、ずぶ濡れではないか…。目当ての物は手に入ったのか?」
「はい。勝頼様、ありがとうございます」
「勝頼様、お早く中へ。湯も用意してございます」
「助かる。ありがとう。昌幸、早く湯に!早く体を温めねば風邪をひいてしまう!」
「花を桶に入れたいです」
「解った。解ったから、ほら」

ずぶ濡れで凍える私を見て、勝頼様が雨の中なのに駆け寄って下さった。
勝頼様を雨に濡らせたくなかったのだが、勝頼様に包まれるように抱き寄せられては何も言えない。

門番の方に傘を差してもらい、戸口で体を拭いた。
勝頼様と門番の方に深く頭を下げて御礼を言った。
桶に水を組み、上着から菜の花を水につける。
漸く、安堵出来た。

ぐるり、と視界が回る。
どうした事だろう。体が寒くて動かない。

「?」
「昌幸、昌幸!」

勝頼様の声が遠くに聞こえて、それからは覚えていない。







頭を撫でられている感覚がして、ぼんやりと目を開けた。
見慣れた天井に、自分の部屋だと解った。
着替えさせられて、布団に寝かせられている。
体の冷えも収まっていて、額には冷たく濡れた布巾が置かれている。
布巾で良く見えないが、この手は誰か解る。

「…ちちうえ…」
「気が付いたか、昌幸」
「…お久しぶりです、父上」
「このような雨の日に、何をしておった。勝頼様がお前の面倒を看て下さったのだぞ」
「…申し訳ないです…」

今日は父上が兄上達と共に躑躅ヶ崎館に訪問される日であった。
故に父上の大好きな菜の花を摘みに行ったのだ。
見れば、枕元に菜の花が入った水桶が入っている。
体を起こして、菜の花を両手で取り父上に差し出した。

「…父上に、菜の花を…」
「…儂が好きだと、覚えておったのか」
「父上が、来て下さるならと、兄上達と一緒に、父上にお渡ししようと文で約束していたのです」
「信綱も昌輝もどうにも落ち着かんと思うていたが、そういう事か」
「私だけ、なかなか菜の花を取りにいけなくて、それで…今日になってしまいました。本当は兄上達と共に、父上を菜の花でお迎えしたかったのです」
「青ざめた勝頼様に出迎えられて、肝を冷やしたわ。勝頼様は半泣きであったぞ」
「…勝頼様は何処に?」
「信綱、昌輝と話しておる。隣の部屋に居られるよ」
「そうですか…」

勝頼様も兄上達も隣の部屋に居ると聞いて安堵した。
何より、父上に頭を撫でられるのが心地好くて落ち着いた。
久しぶりの父上だ。

「昌幸、儂の為に無理をせんでも良い。儂はお前に何もしてやれていないのだからな」
「そんな事ありません…」
「お前を人質にして、家族として一緒に暮らせない。幼いお前にばかり可哀想な事をしてしまった」
「…離れて暮らしたら、家族ではないのですか?」
「そうではないが」
「…こうして会いに来て下さるだけで、昌幸は幸せです」
「…全く、背伸びしおって」

くしゃくしゃに髪を弄られて笑う。
隣の襖が少し空いて、私と同じ色の目と視線が合う。兄上達だ。

「信綱兄上、昌輝兄上、お久しぶりです」
「昌幸、もう大丈夫なのか」
「熱は下がったのか」

私に呼ばれて兄上達が襖を開けた。
手を伸ばすと、信綱兄上にぎゅっと抱き締められる。
上田の、真田の郷の匂いがした。

「よしよし、頑張ったな昌幸」
「昌幸の分も摘めば良かったのだ、兄上」
「それでは意味がないと昌幸に怒られてな」
「あにうえ」
「よしよし、よく頑張った昌幸」
「えらいぞ、昌幸」

兄上達お二人に撫でられてもう我慢が出来なかった。
兄上の腕の中でぽろぽろと零れる涙が収まらない。
泣いていいと頭や肩を撫でられて、一頻りに兄上の腕の中で泣いた。


顔を拭いてしゃんとする。
お館様と勝頼様に呼ばれ、我等真田家は一列に並び頭を下げた。

「大丈夫かい、昌幸」
「はい。勝手をしました。申し訳ありません」
「倅が御迷惑をお掛け致しました。申し訳ござらぬ。よく聞かせます故」
「幸隆もそうお言いでないよ。昌幸はおことが来るのをずっと楽しみにしておったからね。昌幸、外に出たいとも言わせてやれなかったね。申し訳ないことをしたね」
「そんな、お館様」
「お館様、昌幸を甘やかさんで下さい」
「甘やかすとも。見よや、小さな体でしゃんとして、もう昌幸は立派に武家として役目を果たしておるよ」

父上が深く頭を下げて、何という事をしてしまったのだろうと居た堪れない思いに押し潰されそうになったが、逆にお館様に謝られてしまった。
目を丸くしていると、お館様に頬を撫でられる。
お館様の手は父上よりも大きくて、父上に負けないくらい優しかった。

「父上。昌幸をもう少し幸隆殿や信綱、昌輝に会わせてやれないでしょうか」
「そうさね。幸隆、もう少し来てやれないかい?昌幸はなかなか子供になれないからね」
「されど、宜しいのですか…。人質の意味が」
「もう昌幸を人質だと思っちゃおらんよ。奥近習じゃからな。もう立派な武田家臣じゃよ」
「しかし、お館様。昌幸はまだ七つです」
「歳は関係ないよ幸隆。もう馬にだって乗れるしのう」
「左様でしたか。久しく見ない内に…」

扇子をとんとんと手で叩き、ふとお館様が手をぽんと叩いた。
勝頼様の肩に手をやり、お館様が立ち上がる。

「勝頼や、暫し騎馬の訓練を命ずる。そうじゃな、供は昌幸。ちと真田の郷まで行って来るが良いよ」
「ふ、はい、父上。承知しました」
「お館様…」

明確な言葉にはされなかったが、お館様の命とあらば皆様方も何も言えぬ。
しかも勝頼様の供とあれば、明確な御役目である。
お館様は、帰郷の機を下さったのだ。
礼が終わり頭を上げると、兄上達がにこにこと私に笑いかけていた。
釣られて笑いそうになったが、お館様の御前、そこは堪えた。

「幸隆や、今日はどうするね」
「お暇致します。これ以上、お館様に甘える訳には参りません」
「何もこの大雨の中、急いで帰ることもあるまいよ」
「しかし。部屋の用意をさせる訳にも」
「昌幸や」
「はい。お館様」
「昌幸の部屋は空いておるね」
「はい」
「後で食事を持っていくからな」
「ありがとうございます。勝頼様」
「お館様、すみませぬ。何から何まで…」
「昌幸には、勝頼がいつも世話になっておる。儂も世話になっておるよ」
「そんな、お館様…」

きっと勝頼様がお館様に進言して下さったのだろう。
家族で過ごせるようにと、取り計らって下さったのだ。
お館様と父上達は、折り入って話があるのだと場所を変えられた。
勝頼様と二人、部屋に残される。

「昌幸、体はもう大丈夫か?」
「はい。何から何まで…頭が上がりませぬ」
「幸隆殿の為と言ってくれれば父も外出を許しただろうに、何故言わん」
「とても言えませぬ…。要らぬ叱責を受けては父に迷惑が掛かります」
「…何度でも言う。私はずっと、昌幸の味方だからな」
「ありがとうございます。勝頼様…」
「まだ寒いのではないか。随分体が冷えていたぞ」
「…寒いです…」
「漸く、自分の言葉で言ってくれたな」

勝頼様が上着を私に掛けてくれた。
何かと良くして下さる勝頼様には頭が上がらない。

隣の部屋は私の部屋だ。
父上達の布団を用意しようと、襖を開ける。
いつの間にか、私を挟むように布団が三組増えていた。

「これは」
「幸隆殿と、信綱と昌輝の分だ。ちゃんと準備させておいたぞ」
「何から何まで…申し訳も御座いませぬ」
「ふ、今日は昌幸にとって特別な日だ。では、私は部屋に戻るぞ。もう無理をするなよ昌幸」
「…勝頼様」
「ん?」

勝頼様はどうしてここまで私に優しくして下さるのだろう。
勝頼様もお館様も、私に優し過ぎる。
あまりにも申し訳なくて、勝頼様に詰め寄った。

「何故、一近習の私にここまでして下さるのですか」
「うーん、何故と言われてもな」
「何故ですか」
「昌幸はいつも、私の傍に居てくれるだろう?それだけで私は嬉しい」
「それが御役目です。それに傍に居て下さるのは、勝頼様でしょう」
「私は昌幸の事が好きだからな。好きな子には優しくしたいだろう」
「…好き?」
「おやすみ、昌幸」

勝頼様は笑って私の頭を撫でられ、部屋に戻られた。
何だか顔が熱くなった。熱がぶり返したのかもしれない。
父上達のお戻りを待たず、自分の布団に潜った。

また頭を撫でられている心地がして、目を開けた。
父上の手だ。見れば後ろに兄上もいる。

「良き主を持ったな、昌幸。真田は幸せよ」
「はい、父上」
「お前は勝頼様をお支えせよ。儂は真田を護るのが役目よ」
「はい」
「父上、そろそろ固い話は終いにして下され。昌幸が眠れません」
「眠りたくありません、兄上」
「駄目だ。お前は今日雨に打たれたのだぞ。大事になったらどうする。それこそお館様や勝頼様に御心配を掛けてしまうだろう」
「…雨が止んだら、行ってしまわれますか」
「雨が止んだらな」
「そう、ですか」
「起きたら誰も居ない、なんて事はないから安心せい」
「はい…」

今日は父上達に甘えてもいいとお許しをいただいた。
沢山頭を撫でられて、眠くなってしまった。
父上の指を掴み、兄上達を背に感じながら目を閉じた。





久しぶりに風邪をひいて寝込んでいたら、懐かしい夢を見た。
誰かに頭を撫でられている心地がしたが、目を開けたら襖が閉まってしまった。
子供達が忙しなく落ち着かず襖の向こうに居るのは解っているが、うつしたくないと遠ざけている。

「こら、お前達。部屋に戻っていなさい」
「父上は大丈夫でしょうか」
「ただの風邪よ。昌幸は大丈夫だから向こうに行っておれ」
「よし、お前達!鍛錬に付き合ってやる。かかって参れ」
「本当ですか!」
「負けませぬ!」
「…ふ」

兄上達が子供達をお相手して下さって居るのだろう。
どたばたと忙しなく、沢山の足音が聞こえた。

また、襖が開いた。
薄く横目を開けると信綱兄上であった。

「大丈夫か」
「…懐かしい夢を見ました」
「ふ、父上も後で来られる」
「左様ですか…」
「…もう来られたようだな」

私の枕元に菜の花が生けてあった。
先程、私の頭を撫でていかれたのは父上だったのか。
もう童子という歳でもないのだが、父上にとっては私はいつまでも子供なのだろう。
兄上と顔を合わせて笑い、再び目を閉じた。

「勝頼様が見舞いたいと文が来ておるぞ」
「…丁重にお断り願います」
「すまぬな。来てしまった」
「勝頼様」
「勝頼様…」

ふわ…と、果物のような甘く優しい香りがする。
勝頼様の衣の香りがして、ああ返事より早く来てしまったのだと苦笑した。
桃やら葡萄の香りがする。

「居てもたってもいられなくてな。返事を待てなかった。許せ」
「いえ。昌幸は幸せ者です」
「兄上…」
「はは、良いではないか昌幸。勝頼様、ゆるりとお過ごし下され」
「うむ。果物を沢山持ってきたぞ」
「これはこれは。馳走になります」

兄上に頭を撫でられて、兄上は戴いた沢山の果物を手に部屋を出た。
風邪をひいたと文で書いたというのに、何故来てしまうのか。
勝頼様は私の傍に座り、父上や兄上が撫でたがる頭ではなく、頬を撫でられた。

「ん、熱は下がったようだな」
「…うつります。お退き下され」
「大丈夫だ。先日、風邪はひいたからな」
「威張れる事ではありませんぞ」
「今日は泊まるからな」
「私の話を…」
「…本当に、昌幸が心配で急いで来たのだ。駄目だったか?」
「っ」

七つの時に、勝頼様が私を好いていると伝えられた。
その意味は一時の感情ではなく、戯れでなく、本気の恋慕であった。
そして今、私達は恋仲にある。

私を大切に思ってくれている人は、家族以外にも居る。
それはとても幸せな事だった。


溜息を吐いて了承すると、勝頼様は私の手を握った。

「懐かしいな。菜の花だ。覚えているか?」
「あの時の御恩は、忘れませぬ」
「あれからずっと、幸隆殿は菜の花が好きだな」
「そうなのですか」
「いや、菜の花ではなく、お前達が好きなのだろうな。先程、とても温かな眼差しで昌幸の傍に居たぞ」
「…そう、ですか」
「ふふ、照れているのか?」

家族と、勝頼様の温もりが愛おしい。
私は本当に幸せ者だ。
いつまでもこうして居られたらと願い、勝頼様の手を握り返した。


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