さよならだけが人生じんせい

甲斐、信濃から遠く離れた紀伊の国、九度山。
此処に配流となり、もう随分と経つ。
口や顔では優しげに調子の良い事を言っておきながら、永遠に此処から出すつもりはないとあの狸はわしに目で語っていた。
さぞや腹の中で笑っていよう。
わしも腹の中では、嘲笑っていた。何処までも相容れん。

戦場から離れて随分と経つ。
以前にも増して、月を見る機会が増えたと思う。
月だけは、あの頃と何も変わっていなかった。
甲斐信濃から遠く九度山にあっても、空は繋がっている。
月日が経てど、空は変わらない。



縁側で月を眺めていた。
空だけは、甲斐にも信濃にも繋がっている。
地続きなのだから歩いて行けば何れ着くだろう。
だが、土が違う。空気が違う。
日の本の何処に居たところで甲斐や信濃の土とは違う。
わしの心はあの頃から止まったまま、彼処へ置いてきている。

身と心が釣り合っていないのだから、数年前から己がもう長くない事は悟っていた。
戦場から離れて策やら調略やらを考える事もなくなった。
最近は出掛けるのも億劫で、居室から一日出ない事もある。

幸村には気にするなと言い聞かせているが、それでも眉間に皺を寄せ三刻四刻と経つと用もなかろうにわしの顔を見に来る。
やれ聞き分けのないといつも愚痴るのだが、それが嬉しくもある。
幾つになろうとも、子供達の事は愛おしく思っている。

信之や村松にも一目会いたいが、わしは最早何も期待はしていない。
もう、期待をすることは止めたのだ。
幸村には随分と人質生活をさせてしまった。
親元を離れる辛さは、己が一番身に染みている。
ずっと、わしに力がなくてすまないと思っていた。

力が欲しいと幼い頃から思っていた。
物心がついた頃までは真田の郷で過ごし、それからは武田家中で過ごした。
父、幸隆の元は忙しなく、命の危機を感じることもあった。
それでも、愛おしい故郷だ。
山の景色、空の色、水の冷たさ、風の匂いを未だ覚えている。
父上の傷だらけの大きな手がわしの頭を撫でて、信綱兄上や昌輝兄上がいつも見護ってくれていた。

『随分、良い男になった』
「…誰そ」
『昌幸』
「…、…父上…?」

いつの間にやら隣に白髪を結んだ甲冑姿の男が座っていた。
誰かが入り込んだのかと思ったが、懐かしい声色で名を呼ばれてハッとした。
間違いない。わしが間違えるはずもない。
我が父、真田幸隆、その人である。



どうして此処に居るのかは分からない。
とうの昔に亡くなった筈である。そんな事は分かっていたが、頭では分かっていたのだが、懐かしくて愛おしくて視界が潤んだ。

『随分、顔を見なくなったからな。わしから出向いたのだ。まさかこんな所に居るとは思わなかった』

父上は信濃の地に眠っている。
わしが信濃に行かずにもう久しい。父上はあれから何があったのか何も知らぬのだろう。

「お恥ずかしゅうございます。話せば長くなりましょう」
『ゆっくり聞いてやろう。ほら、源五郎。傍においで』
「…源五郎ではありませぬ。真田安房守昌幸です」
『わかったわかった。ほら、昌幸』
「はい、父上」

傍に座ると父上がわしの肩を叩いて頬を撫でた。
傷だらけの大きな手がわしの頬を撫でた。
晩年の傷が元で父上は体が不自由であった筈だが、今此処に居る父上は随分と軽やかに体が動くようだ。

「父上」
『上田に城を建てただろう。わしにも出来なかった一城の主になったのも知っている』
「御存知でしたか」
『毎年、わしに逢いに郷に来てくれた事も知っている』

再び頬を撫でられて、視界が霞む。
父上から懐かしい真田の郷の匂いがした。

「父上、信濃に帰りとうございます…」
『ああ、そうだな。帰ろうな』

父上にとっては、わしはいつまでも源五郎であり、父上はあの頃のままだ。
頭を撫でられる心地に目を閉じた。
涙を拭って瞼を開いた時、父上の姿は何処にもなかった。
辺りを見渡しても、もう何処にも居なかった。

父上は戦場ではなく、床で看取ったのも随分昔の話。
きっと幻だったのだろう。そうでなければ夢か。
まさか、父上にお逢い出来るとは思っていなかった。

「父上、お体が冷えますよ。床にお入り下さい」
「ああ…、ふ…」
「何か良い事がございましたか」
「父上が来たぞ、幸村」
「爺様が?それはそれは、懐かしゅうございます」

わしを案じた幸村が例によって様子を見に来たようだ。
幸村は、わしが嘘を吐いているとは思わず、すとんと聞き入れて話を続けた。
真面目な信之ならそんな馬鹿な、と言うだろう。
兄弟の違いに苦笑しつつ、促されて床に入った。



今宵も月が綺麗だった。
月見なさるならせめて羽織をと言われて、肩に掛けられた羽織は随分と懐かしいものだった。
幸村が掛けてくれたそれは、信綱兄上の物だ。
大きくなったら着てみるといいと言われて譲られたと幸村は言っていたが、思わぬ所で懐かしい代物に出逢えた。
わしが余りにも微笑んでいたからだろうか、幸村はその羽織をわしに譲った。
強請ってしまったかと幸村に謝ると、この羽織の価値を誰よりも知っているのは父上ですと彼奴は笑っていた。

兄上達の事は今でも、昨日の事のように思い出せる。
信綱兄上、昌輝兄上。
わしの二人の兄は勇敢で、強くて優しくて、尊敬する自慢の兄だった。
そしてあの日、お二人とも帰って来なかった。

五月が来ると、わしは床に着くことが多かった。
短かったが、真田の郷で過ごしたあの日々を思い出して、愛おしくて戻りたくて心が泣いていた。
父上に母上、信綱兄上や昌輝兄上の命日は五月であり、日が近い。
上田に居たあの日々であったなら、毎年墓参りをして真田本城で過ごしたものだ。
五月は、信濃の真田の郷で在りたかった。

信綱兄上の羽織を肩に、月を見上げる。
幾度も使ってくれていたのか、着慣れた感じがある。
いつの間にやら、わしより大きくなった。
信綱兄上も幸村も、わしより身丈がある為に、わしにはこの上着はちと大きい。
手が出ないではないかと、袖を握ってひとり笑う。
信綱兄上は、生まれた時からよくよくわしを見ていてくれた。
小さな頃にはよく背中におぶさっていたし、手を繋いで郷で遊んでくれたのを覚えている。
何があってもわしが護る、お前は何も心配しなくていいからな。
そうしていつも、優しい声色でわしの頬を撫でて行くのだ。
あの日、信綱兄上は血染めの陣羽織しか、戻って来なかった。

実は、今日の足袋は昌輝兄上に戴いた物だ。
足袋など直ぐに履き潰してしまうと思っていたのだが、大切にしまっておいたのが昨日たまたま出てきた。
もう何年も目にしていなかったのだが、たまたま出てきてくれた。
これはかの武田軍、ムカデ衆の足袋である。
隠れた内側に黒糸でムカデの刺繍がしてあるのだ。
ムカデ衆に任命され、戦場を駆ける昌輝兄上は格好良かった。
羨望の眼差しで見上げていたら、ひと揃いやろうか、と昌輝兄上がわしにくれたのだ。
戦場ではこれを履くのだぞ、わしがついてるからな、大丈夫だからな。
そう言ってわしを突き放して、あの日、昌輝兄上は行ってしまった。



あの日を思い出して、胸がつきりと痛む。
せめて、信綱兄上の首を直に目にしなかったのは幸いであった。
そして、昌輝兄上は何も戻らなかった。
信綱兄上と昌輝兄上は、殉死した白川兄弟と共に信綱寺に眠っている。
父上と母上が眠る真田山の向かいに兄上達が居る。

こうしていたら、父上の時のように逢えるのではないか、などとわしも焼きが回ったのやもしれん。
信綱兄上の羽織と、昌輝兄上の足袋。
どちらも兄上達の思い出が詰まっており、それにとても温かい。
兄上達が傍に居るような心地がして目を閉じた。

縁側でうたた寝をしてしまったらしい。
さすがに寒いなと肩を震わせていると、背中や肩を摩られているような気がして顔を上げた。

『こんな所で寝たら、風邪をひくぞ』
『全く、寒がりのくせに』
「…信綱兄上…、…昌輝兄上…」

また夢だろうか。
甲冑姿の武者が二人、わしの隣に居た。
見間違える筈もない。信綱兄上と昌輝兄上がわしの両隣りに座っていた。
懐かしい兄上達の姿を目にして、唇を噛み涙ぐんでいると、その目元を信綱兄上が拭った。

『ほら、風邪をひく。お前は寒がりなんだから、早くお入り』
「兄上…、兄上ですね」
『ああ…、苦労を掛けたな。お前にばかり何もかも押し付けてしまった』
「信綱兄上…」
『生きていてくれた。生きていてくれて良かった』
「昌輝兄上…」
『お前だけでも生きていて欲しかった。あの時は、すまなかったな』

信綱兄上と昌輝兄上。
あれほど可愛がられていたのだ。無論懐いていたし、愛してもいた。
信綱兄上は、武田騎馬隊、侍大将として長篠設楽原にて討死した。
昌輝兄上は、共に行こうと約束したのに、わしを突き放して死地に向かい帰って来なかった。

どちらも大切なわしの兄上だ。
無論、話したいことは沢山ある。
何から話そうかと思案したが、今はただ、信綱兄上と昌輝兄上の傍に寄り添っていた。

生きていて欲しかった。
そう思わずに居られない。
交互に見上げて俯くと、ほろりと涙が伝った。
頬を伝う涙を拭われて、頬を撫でられる。
傷だらけの大きな手。信綱兄上に頬を撫でられて微笑んだ。

『お前に泣かれると、困る』
「わしはもう、兄上より年上ですよ」
『抜かされてしまったな』
『見目も良く、渋く、格好が良くなったな』
「兄上達には勝てませぬ」
『そして、苦労を掛けた』
『昌幸にばかり、押し付けてしまった』
「いいえ、いいえ。わしは何も出来ませなんだ…」
『そんなことはないだろう。なあ、源五郎』
『小さな源五郎が、あんなに一生懸命護ってくれたではないか』

信綱兄上と昌輝兄上に肩を抱かれて涙ぐむ。
兄上達の前では、わしは源五郎に戻れる。
小さな源五郎と兄上達はわしを大切にしてくれた。
いつも、わしを護らんとしてくれた。
そして最期まで、わしを護ってくれた。

袖で目元を拭い、二人の兄上に頭を下げた。
大きな手に頭と肩を撫でられて、顔を上げた時にはもうお二人の姿はなかった。



己が死期が近いのだろう。
皆、信濃から迎えに来てくれたのだ。
この身は朽ちても、心は信濃に戻りたい。
そう思っていたからか、皆迎えに来たのだろう。

一言二言とはいえ、会話をすることが出来た。
未だ話したいことが沢山ある。逢って話したい人が沢山いる。
父上に、信綱兄上に、昌輝兄上。お館様や、方々にもお逢いしたい。

そして、そして。


本当に会話だったのかどうかは解らない。
わしが父上や兄上達に逢えたという証拠はない。
傍から見れば、わしが独り言を言っているように見えたのかもしれぬ。
幸村に嬉しそうだと言われ、毎夜逢いに来てくれるのだと言うと幸村は寂しそうな顔をした。

「何故、そのような顔をする」
「父上が、連れて行かれてしまいそうだと思いました」
「ふ、信濃へか」
「はい。何れ父上と共に真田の郷に帰りとうございます」
「…そうだな。何れ、何れな」

わしは死ぬまで此処から出られない。
とうに諦めていたが、水面下で幸村が何やら色々と画策しておるようだ。
幸村は未だ、諦めていなかった。

縁側で月を眺めていれば、誰かに逢えた。
一言二言、話しかけたら消えていく。
触れられる心地はあったが、その手に体温は感じなかった。
懐かしい人達が皆、優しく微笑んで消えていく。

今朝は、高野山にふらりと足を運んだ。
お館様に昨今の出来事をお話したのだ。
お館様と、そして。

「逢いに来て下さらないのですか」

空が泣きそうな色をしていた。
傘を被り、苔むした墓を見つめてぽつりと呟き、背中を向ける。
いつかまた逢えたら、言いたい事が沢山ある。一度は殴らねば気が済まない。
奥歯を噛み締めて、ぽつりぽつりと降ってきた雨から逃げるように小走りで高野山を下りた。



夕餉と湯浴みを終えると、雨は止んでいた。
縁側に座ると、どっしりとした体躯の殿方が座っていた。
何度も見てきた背中だ。恭しく膝をつき、頭を下げた。

『やあ、昌幸』
「お館様」
『ふふ、あんな話を聞いたら逢いにきたくなっちゃったよ』
「お館様なれば、来ていただけると思っておりました」
『わしだけじゃないよ。皆、傍におるよ』
「お館様以外も来て居られるのですか」
『源五郎は、それはそれは可愛かったからねぇ。こんなに立派になって。勘助や、信房や昌景も気にしておったよ』
「方々も居られるのですな…」
『昌幸。よく頑張ったね』
「…わしは、何も出来ませんでした」
『そんな事をお言いでないよ、昌幸』

我等がお館様、武田信玄公。
多数ある墓所のひとつが高野山にある。
我が父、幸隆と同等に、もう一人の父だと思って育った。
わしでは甲斐を取り戻すこと能わず、ましてや信濃にすら行くことが出来ない。
武田は滅んだ。滅んでしまった。
わしには真田を守る事しか出来なかった。

『明日じゃな』
「明日?」
『明日も、此処で待っておいで』
「明日…」

お館様がそう仰ってゆっくりと立ち上がると、その先には見知った方々のお姿があった。
信房様や、昌景様。昌次の姿もあった。
思わず手を伸ばすと、昌次は首を横に振った。




「父上、如何されましたか」

背後から幸村がわしに声をかけた。
その一瞬の瞬きの間に、方々の姿は見えなくなってしまった。



今宵も縁側で月を見ていた。
幸村に諭されたが、うんと頷くのみで動くことはしなかった。

もう体がもたないのが解る。今日なのだろう。
父上やお館様のように、人にかき消された命でなかっただけ、ましだっただろうか。
それとも信綱兄上や昌輝兄上のように、武士らしく戦場で果てるべきだったのか。
たらればと、後悔ばかりしていた人生だった。

わしの戦う理由が分かったような気がすると言った幸村に笑い、そして今まで胸に秘めていた思いを口に出した。
わしはただ、真田を護りたいだけであった。
寧ろ、それしか出来なかったとも言える。

月が朧に見えた。
今宵は空も雲も晴れていたはずなのだが、これはわしの目が見えていないのだろう。
月を見る度に思い出すあの御方の事を、もう言葉にしても良いだろうか。
忘れたことはない。わしの一生の後悔である。

「何故あの時、勝頼様と共に死ぬことが出来なかったのかと」

力の入らない身を何とか起こして月を見上げる。
いや、違うな。
今まで言葉にしなかった。誰にも話さなかったわしの唯一の後悔である。
今まで言葉にして、口に出すこともあまりなかった。
敢えて口にすることを避けてきた。

勝頼様。
最初の友であり、最期の主君だった。
そして、わしはあの御方を護れなかった。
お館様を失い、父を亡くし、兄上達や旧臣達を殺され、心が蝕まれ追い詰められていった。
大事ないと装わなくては、大丈夫だと思わせなくてはと常に考えていた。
わしより抱えたものの大きい勝頼様を不安にさせまいと、あの頃は泣く暇もなかった。
故に死ぬ覚悟などは一度もせず、生きる覚悟を決めていた。

徐々に追い詰められていく窮地を何とかしなければと、どのような手を使おうとも勝頼様を守りたかった。
勝頼様に生きていて欲しかった。
名を呼べば思いが溢れて止まらなくなった。

「ただ、生きろと言ってやれば良かった」

信じていないのは、わしの方だった。
さようならとも、言えなかった。
人が死んで悲しいのは当たり前だ。
いつだったか、勝頼様はそう言った。その言葉はずっと胸に遺っていた。
だが勝頼様は、生きる事を諦めてしまった。
さようならばかりの人生だった。

勝頼様の最期は目にしていない。耳に留めただけだ。
京に晒されたという首も、目にしていない。
直に見てしまったら、それこそわしは壊れるだろうと避けていた。

わしの心は、あの時のまま止まっていた。
勝頼様は、あの桜の下で眠っている。
桜が咲く頃に、勝頼様に逢いに行っていた。
もう勝頼様はこの世にはいないのだと、自分を納得させるのに時間が掛かった。
それでも甲斐に唯一咲く吉野の桜を見れば、勝頼様に逢えている気がしたのだ。

「お前には何もしてやれなんだ」

真田を護るという意思は、信之が見事に引き継いでくれた。
嫡男である信之には、信綱兄上の娘が嫁いでいた。
後に本多忠勝の娘が嫁いだが、あれは今、天下で一番安全な所にいるだろう。
真田は、信之に任せることにした。
面倒事を全て押し付けてしまったが、彼奴なら上手くやるだろう。
信之は、わしの息子である。

だが、幸村には何もしてやれなかった。
次男だからと、人質として上杉や豊臣に送り込んでしまった。良い様に使ってしまった。
この子はあっけらかんとしていたが、己が一番人質の寂しさを思い知っていように、幸村にわしは何もしてやれなかった。

故にせめて、利はないと感じながらも西軍に着いた。
それがせめてもの、幸村への親心である。
其れを此奴に語ったことはない。
わしは、そういう事を大っぴらに語る口ではない。

何もしてやれなかった。
そうは言ったが、此奴は徳川を倒すなどと言い放った。その意思は、幸村が継ぐという。
思わぬ幸村からの言葉に、少しは救われたのだろうかと独り言ちる。
幸村もまた、わしの息子である。

「そうか」

体に力が入らないのが解る。
瞼が重く、幸村の声も遠くに聞こえていたが、徐々に聞こえなくなった。














聞き馴染んだ声がする。
庭には水無月の青や紫の紫陽花が咲いていた筈なのだが、今目の前の景色はどういう事だか黄色と緑、それに桜色が溢れていた。
菜の花に、蒲公英、そして桜の花弁が待っている。
目を擦ってみても、わしはもう九度山には居なかった。
わしは、春の野山に居るようだ。

九度山は、大和に程近い。
まさか吉野山にでも迷い込んだかと周りを見渡せば、そこは、そこは、真田の郷、菜の花の景色であった。

懐かしさに歩みを進めると、目の前に一本だけ、真田の郷にはないはずの桜の木があった。
一本だけ寂しく立っているその桜にも見覚えがある。
儚く散る花弁の下に一人、鎧姿の武者が立っていた。
その鎧には、見覚えしかない。

「昌幸」
「…勝頼様…」

桜の下でその人は振り返り、儚く微笑んだ。
声も、微笑みも、年齢もあの時のまま。
あの時のままの勝頼様だった。
勝頼様は変わっていなかった。

不意に伸ばされた手を取ったが、先ずは一発殴らねば気が済まない。
勢いのままに平手を食らわすと、痛いぞ、酷いではないかと勝頼様は頬に触れて眉を下げた。
叩いた手の方が痛い。ぐっと唇を噛み締めて勝頼様を見上げた。

「…酷いのは、あなたの方です。わしが、どれだけ…」
「…すまなかった、昌幸」
「どれだけ、わしが…」
「昌幸」
「あなたに生きていて欲しかった」

漸く伝えられた。
勝頼様は一言、すまなかったと眉を寄せてわしを抱き締めた。
温もりや匂い、鼓動の音。何もかもが懐かしい。

「わしだけ、歳をとってしまいました」

思わず甘えてしまったが、老いさらばえた姿を恥じ勝頼様から身を引いた。
勝頼様は優しく笑って、わしの頬に手を添えた。

「そんなことはないぞ」
「されど、…え?」
「な?昌幸は何も変わっていない」

瞬きの間に、郷や躑躅ヶ崎館でよく着ていた具足に装いが変わっていた。
体に感じていた怠さや重さも消えて、背筋も伸びている。
自分の頬に触れれば、はり艶が戻り若々しい。
あの頃の私に戻っていた。

「そんな、馬鹿な…」
「ふふ、ほら、行こう昌幸」
「何処かへ行かれるのですか?」
「無論、真田の郷だ。幸隆も信綱も昌輝も、ずっとお前の事を見守っていたからな」
「父上…、信綱兄上、昌輝兄上…」
「それから、躑躅ヶ崎館にも立ち寄って欲しいな。父上や昌次だってお前に逢いたいのだ」
「お館様、昌次…。方々もお変わりないでしょうか」
「あの謙信公が来てしまってな。それはそれは大変だったのだ」
「それはまた…」
「これからはずっと一緒だ」
「ずっと一緒、ですか?」
「ああ、もう昌幸を独りにするものか」

勝頼様に手を取られて、桜の下から離れると視線の先に父上や信綱兄上、昌輝兄上が手を振っていた。
矢沢の叔父上や母上も居られるようだ。




あの頃のままの、真田の郷だ。
帰って来た。
頬を伝う涙を勝頼様が指で拭って笑う。

「泣き虫だな、源五郎は」
「全部、四郎様のせいです」
「全部とは酷いな。全部じゃないだろう…否、全部かもしれないな」
「全部、全部、あなたのせいです」

涙を拭い、勝頼様に向き直る。
行こうと手を引かれて一度振り返ると、縁側で月を見上げる幸村が遠くに見えた。
信之と村松が届いた書状を読み、涙を零して月を見上げていた。
思わず其方を向いて立ち止まるも、勝頼様に手を引かれて向き直る。

「行こう、昌幸」
「はい。勝頼様となら、何処までも」
「ふ、それは告白か?」
「はい。今でもずっと、あなたの事を愛しています」

はっきりそう伝えると勝頼様は頬を赤らめて、おずおずと私の手を取った。


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