現し世は戦国。
生死と表裏一体、そんな世の中だ。
私が生まれたのもほんの父の気まぐれのように思う事がある。
私が武田を継ぐ事はなかろう。諏訪の地で、兄上が継いだ武田に尽くすという将来も悪くない。
「勝頼様」
「ああ、昌幸」
「気紛れに躑躅ヶ崎館を抜け出すのも大概にされよ。私とていつ何時でも、上田に居る訳では御座いませぬぞ」
「否、昌幸は待っていよう。今宵とて、私を待っていてくれた」
「お館様からお許しを得ました故」
「それで、駆け付けてくれたのか」
「上田に向かわれるとお聞きし、戻らせて頂いた次第」
上田に向かう事を父上に伝えた。
この様な時は昌幸に会うのが一番良い。昌幸と話していると不安が取り除かれるようだ。
実は、昌幸は躑躅ヶ崎館に居たのだ。
だが、躑躅ヶ崎館では二人にはなれん。急いで戻った、のだろう。
私も少々寄り道をしてから向かった為、昌幸が戻っているであろう刻限に合わせた。
「…どう、なさいました」
「ん?ああ…」
「悩み事ですな」
「昌幸には見抜かれてしまうか」
「お見通しですよ」
屋敷から少々出た庭で月を見上げた。
昌幸は夜風は冷えると、自分の上衣を肩に掛けてくれた。
上衣には昌幸の体温が残っていた。
「馬鹿者。お前が脱ぐな。お前が冷えるだろう」
「しかし、それでは勝頼様が」
「よし解った。こうしよう」
「か、勝頼様?」
昌幸の上衣を肩に戻し、私の腕の中に入るよう肩を抱いて私の上衣の中に昌幸を迎えた。
流石に動揺したのか、昌幸はどうしたらいいのか困っている。
「寒くはないか」
「…はい」
「そうか」
お前は私のかけがえのない友だと、昌幸には伝えている。
友など畏れ多い、私は供ですと昌幸は頭を下げた。
友か。自分で言った言葉に悩むとはな。
真に友で在るならば、この様な想いに悩む事もないのであろう。
私が躑躅ヶ崎館を抜けたのは気紛れに思えたか。それならば何よりだ。
先の戦で昌幸は腹に傷を負っている。将らに聞いた。
しかして策を講じ、戦には淡々と勝利している。その戦功を讃える為に父上が昌幸を呼んだのは知っている。
私が何より案じているのはその事だ。
「大事ないのか、昌幸」
「は…、不甲斐なく申し訳ございません」
「傷は酷いのか」
「傷など取るに足らぬ事。兵家の常で…」
「傷付けられ、痛いとも素直に言わせてやれなんだか」
「…私は、そのような」
「武田としててではなく、勝頼として、私はお前が傷付けられた事が腹立たしい」
「…勝頼様?」
「大切なものを傷付けられて、悲しい。当たり前だ、そんなのは…。同時に腹立たしい」
「勝頼様…」
私の大切なものだと、そう伝えた。
其れを言っても、あくまで我等は友なのだろう。
また昌幸を困らせる様な事を言ってしまったと思うも、今回は伝えずには居られなかった。
傷を負った腹に触れた。少し熱を持っているようだ。
体が治ろうとしている証であろう。
確かに傷は浅いようだが、米を食べれる程ではないと聞いた。
「食べるか、昌幸」
「栗、ですか」
「私の秘密のおやつだぞ」
「その様な物を、戴いて宜しいのですか。勝頼様のお好きなものでしょう」
「ああ。昌幸の分もあるぞ」
私が寄り道をしたというのはそれだ。
今は粥か果物くらいしか食べていないと聞いていた。
果物、果物かと考えて、私なりに昌幸を思い手に入れた物だ。
昌幸は甘い物は好まない。今回は私のおやつ用のではなく、昌幸の為に甘くない物を探したつもりだ。
胸元から栗を出して私が皮を剥き、遠慮がちな昌幸の口に運んだ。
甘くない…、と昌幸は驚いたような表情を見せた。
この栗は昌幸の口に合ったようだ。
「ありがとうございます」
「ああ」
暫く昌幸を腕に囲いながら、二人で栗を食べた。
時折、昌幸の腹を擦りながら肩に額を乗せた。
友では足りぬと考えはじめたのは何時からであったか。
人の心に敏感な昌幸は、私の想いに気付いていようか。
私は男色なのかと悩みもしたが、他の男はどうであろうと考えた結果、どうやらそうではないと思えた。
どうやら私は、昌幸でなければ駄目らしい。
些細な事だった。
武田に小姓である時から仕える昌幸は歳が近く、よく話し相手となってくれていた。
先ず、特徴的な髪色が目に付いた。
話せば私には柔らかく、何処か朗らかで優しげであった。
声が好きだ。もっと聞きたくて話しかけた。
眼差しが好きだ。眉間に皺が寄りがちで無愛想であったが、見ていたいからと傍に寄った。
友だ友だと昌幸に言っていたが、そう言い聞かせていたのは私の方だ。
これ以上の好意は、友で居られない。
好意を伝える事は出来よう。
だが、その好意は受け取られるだろうか。
もし、その好意が元で昌幸が離れてしまう事を恐れた。私は意気地がない。
肩が震えている事に気付いた。
やはり、寒いか。昌幸から言い出す事が出来ないのであろう。
其れは我等が友で、主従だからだ。
「もう戻ろう。昌幸、付き合わせてすまなかった」
「…はい」
「何だ。もう少しこのままが良かったか?」
「……。」
昌幸が黙ってしまった。
待て待て、そこで何故黙る。
確かに私から半ば無理矢理埋めてしまった事だが、返答に困り沈黙したようには思えない。
その沈黙は肯定に聞こえてしまう。
私は意気地がない。
だが、たらればを後悔するような事もしたくはない。
ぐっと、昌幸を背後から抱くように力を込めた。
昌幸の体が一瞬、強ばったのが解る。
「…前々から、昌幸に伝えたい事があった。今伝えても良いか」
「…はい」
「よく、私に友として仕えてくれた」
「…勝頼様?」
「よく、聞いてくれ」
御役御免とでも思ったのであろう。昌幸の瞳に絶望の色が見えた。
ああ、そのような顔をさせたかったのではない。
「これは私の思いよがりだ。ただ、伝えたいだけだ」
「…はい…」
「昌幸を、好いている。単純な好意ではない。恋慕の情だ」
「っ、勝頼、さま…?」
「はは…。この想いは、受け取らなくていい。聞き流してくれ昌幸」
「っ!」
伝えて直ぐに笑って誤魔化した。
そしてそれは昌幸に見抜かれた。私の腕を掴み見上げるその手は震えていた。
気のせいではない。昌幸の瞳が潤んでいる。
目元に触れると、昌幸が私の手を掴んで離さなかった。
「昌幸?」
「…、御無礼を承知で申し上げます」
「何だ」
「…先の言質」
「…ん」
「謹んで…」
「…ああ…」
「……、お受け、致します…」
「ああ……、……ん?」
謹んでお断りします、じゃなかったのか。
見れば、昌幸は耳を赤く染めて私から目を逸らしていた。
一瞬ではあったが、二人とも沈黙した。
そして次の瞬間、私は昌幸を抱き締めていた。
昌幸は驚いていたが、私の背に恐る恐る手が回るのが解った。
「私でいいのか」
「それは私の台詞で…」
「武田を継げぬ私でいいのか」
「勝頼様は、勝頼様でしょう」
「っ、しかしお前は、武田の」
「私とて、真田は継げないでしょう。兄がおります。勝頼様と同じです」
「同情なら止めろ、昌幸」
「同情?…ええ、そうですね。同情です」
「何?」
「…私だけがこの想いを抱いているのだと、そう思い今日まで生きておりました」
「…そうではないと、言ってくれるのか」
「…はい…」
「昌幸…っ」
「っ」
「ああ、すまぬ」
つい力を込めてしまった。昌幸に謝罪し、正面に向き直る。
肩に手を置き、昌幸を見下ろした。
きっと私は今、泣きそうだ。
昌幸が私の目尻に触れた。恐らく私は涙を流したのだろう。
「…勝頼様は、私で…よろしいのですか」
「昌幸が良い。お前でなければならぬ」
「私は、男なのですよ。お世継ぎも生めません。あなたの何にもなれません。それでも、良いのですか」
「何にもなれぬなど、自分を卑下するな昌幸。私が惚れた男だぞ」
「は…、しかし」
「私は昌幸が好きだ。昌幸はどうだろうか」
「…私も、言わなくては駄目ですか」
「昌幸の言葉が欲しい。私ばかりでは狡いぞ」
「…では、僭越ながら」
耳まで赤くしている癖に、こほんとひとつ咳払いをする。そんな昌幸の仕種一つ一つが好きだ。
期待を込めて目線を合わせ、緊張している面持ちの昌幸を見下ろした。
「お許し下さい…。この昌幸、勝頼様を、お慕い申しております」
「うむ、許した!」
「…左様、ですか…。即答とは…」
「ああ、ああ、嬉しいぞ昌幸!私はお前と生きていきたいのだ」
「…はい。勝頼様」
恋慕の情は受け取られた。
気が付けば昌幸を抱き締めていた。
どうしようか。今はとても嬉しくて堪らない。
ああ、そうだ口付けたい。口吸いを許してくれるだろうか。
昌幸から、この事は絶対の他言無用であると強く請われたが話半分に聞き流した。
男同士だとか、そういうのはとうに吹っ飛んでいる。
唇に触れた。流石の昌幸もこれには黙った。
少し体温が上がったか。唇を指でなぞる。
「…口吸いを、許して欲しい」
「っ、勝頼様、それは」
「未だ、早いか。それとも緊張しているのか」
「…緊張、しています。当たり前でしょう。勝頼様は…私の、好きな人なのですよ…」
「…、そうか」
そして昌幸は、未だ早いとも言わなかった。
寧ろ、何時手を出してくれるのかと少し期待をしてくれているような、不安で堪らないといったような複雑な面持ちである。
そのまま顎に手を添えて昌幸に唇を合わせた。同時に背中や腰も引き寄せた。
昌幸の唇は薄かったが、とても柔らかく、そしてとても優しい。
私は昌幸に口付けているのだと、実感が持てた。
月夜の下で流石に寒いと思っていたが、私達二人だけがとても熱かった。
「昌幸」
「はい」
「愛しているぞ」
「…はい」
手を繋いだ。何時だったかの子供の頃のように。
今は、恋人として手を繋いだ。
ずっと想っていた。その想いは漸く実ったのだ。
「昌幸」
「はい。御見送りを致します」
「それは不用だ」
「…しかし」
「今日は帰りたくない。駄目か?昌幸」
強請るように昌幸の手を握り、屋敷に向かい歩いた。
今夜は離れたくない。今夜は、という訳でもないが、今は傍を離れたくない。
昌幸は口元に手をやりながら溜息混じりに私を見上げて話した。
「…確かに夜も更けてまいりました。今から帰路に向かうのは危のう御座いましょう。部屋をご用意致します」
「ああ。それと、我儘だ。聞いてくれぬか」
「未だあるのですか」
「そのまま昌幸と共に過ごしたいのだが、駄目か?」
「…駄目では、ございません…が」
「何だ。褥を共にせよと言ってる訳ではないぞ?」
「…私は、…勝頼様が、…お望みならば…」
「っ!」
昌幸はそれ以上言わなかったが、私からは視線を逸らしてしまった。
どうやら私は、昌幸に随分と許されているらしい。
私だけが一方的に恋慕の情を抱いていた訳ではないと解ったとはいえ、早々に手を出す訳にも行くまい。
だが、一生清い関係で居たい訳でもない。
「…何れ、覚悟しておけよ」
「か、勝頼様…」
「私が口付けだけで満足出来ると思うなよ、昌幸」
「それは…」
屋敷に着いた。
いつもなら子供達が賑やかだが、昌幸の負傷と私の来訪が重なり人払いをしていた。
用意されていた部屋に腰を落ち着け、正面に座った昌幸の隣に私が座り直した。
「勝頼様?」
「…さて、昌幸。私の大切なものが傷付けられた訳だ。許してはおけん。此処は私が出るべきだと思うが、どうか」
「それは…、愚策ですな」
「何だと」
「私はもうその者を討ち申した。この傷は私の不徳の致すところでございます」
「しかしだな、昌幸」
「私は生きております。少なくとも、勝頼様より先に死ぬつもりはございませぬ」
「だが、許せぬのだ昌幸」
「…勝頼様。まさか…私を思い、躑躅ヶ崎館を抜けたのですか」
「当たり前だ」
「…全く」
主従として過ごしたい訳ではない。昌幸と隣に居たいのだ。
想いが通じた今、昌幸に隠し立てはせぬ。
淡々と事実を述べ、用意された一式の敷布を見やる。
「では、お休み下さいませ。私はこれにて」
「待て、昌幸。共に過ごすと言ったであろう」
「…朝までと、仰せでしょうか」
「まさか。怪我人にそのような無体をするものか。共に床になりたいと申しておる」
「では、もう一式御用意を致します」
「違うぞ昌幸。添い寝を所望する」
「…は…?いえ、あの…」
「嫌か?」
どうやら昌幸は、私には特段甘いらしい。
男の添い寝など面白くもないでしょうと昌幸は顔を顰めていたが、結局は私の進言を許し寝間着姿で傍に居る。
昌幸は私より少し小さい。
それを幸いと見て先に横になり、私の腕を枕にするよう腕を伸ばして床を叩いた。
「昌幸」
「もうひとつ枕をお持ちします」
「ええい、寒いぞ昌幸!早く来ぬか」
「…では、畏れながら…」
「よし」
漸く大人しく私の腕の中に落ち着いてくれた。
左右色の違う特徴的な髪を撫で指に絡めていると、昌幸が私を見上げていた。
その眼差しは優しく、とても穏やかに微睡んでいた。
「…勝頼様」
「ん?」
「おやすみなさいませ…」
「ああ、疲れていよう。おやすみ昌幸」
「はい…」
「…朝が来て実は夢であったとしたら、どうしてくれような」
「夢ではありません。勝頼様」
「ああ…、ありがとう昌幸」
「…夢になど、させません…」
「そうか。頼もしいな。さすが私の昌幸だ」
「もう休まれよ」
「ああ、おやすみ」
額にひとつ、唇を寄せた。
掛布と昌幸を引き寄せ、しっかりと背を抱き抱えた。
大切なものは見誤らないつもりだ。
大切なものを腕の中に落ち着かせ、その大切な昌幸と共に眠りについた。