目の前が真っ暗で、何も見えない。
微かな光も感じられず、手元が何かぬめっている。
「父上、信綱兄上、昌輝兄上…?」
心細くて父上と兄上達の名前を呼んだ。
すると突如、強風が吹き上げて暗闇が消えた。
刀や槍や火縄銃が乱雑に散らばり、足元には数々の人の死体が倒れていて、ひゅっと息を飲む。
見ればその死体のお顔に見覚えがあって、胸元をぐしゃっと握り締める。
「昌景さま、信房さま」
いつも私を抱き上げて高い高いをしてくれた昌景様。
大きな手で私の頭を撫でて下さった信房様。
血塗れで、息をしてなくて。
更にその先に横たわっている二つの死体に息が止まった。
私の手は血濡れで真っ赤だった。
信綱兄上の声が聞こえる。
ぽろぽろと涙が溢れて止まらなくて、声の聞こえる方に手を伸ばすと、温かく優しい手が私の額を撫でた。
「源五郎、源五郎」
「信綱あにうえ、昌輝あにうえ、ちちうえ、ちちうえぇ…」
「何事か」
「父上。泣き声が聞こえたので駆け寄ったら、源五郎が」
「起こしてやれ。可哀想に、悪夢を見ているのだろう」
「はい。ほら、源五郎。おいで」
「…ぁ…、ぅ…?信綱兄上…?」
「大丈夫か?」
「……ぅ、ぇ…」
「源五郎…っ?!」
きっと悪い夢だ。全部全部悪い夢だ。
心配そうに私の顔を覗き込む父上と信綱兄上のお顔が見えたけれど、余りの夢見の悪さに吐き気を覚えて、食べた物を全て戻してしまった。
「…ごめんなさい、ごめん、なさい…ぅ、ぅ、ぁ…ぅ」
「源五郎、じっとして。昌輝、布巾を取ってくれるか」
「…源五郎?どうした?」
信綱兄上の着物に粗相をしてしまった事を深く頭を下げて謝り、それでもまだ瞼の裏に残る凄惨な赤い景色に嗚咽が収まらなかった。
信綱兄上は嫌な顔ひとつせず、寧ろ厳しく眉を寄せて私を心配してくれていた。
傍に寝ていた昌輝兄上も何事かと目を覚まして、私の世話を焼いてくれた。
昌輝兄上に口元を拭われて、後始末の為に着物を着替えさせられても、あの景色が脳裏に焼き付いて離れない。
あの赤い景色が脳裏から消えない。
あの二つの死体は、信綱兄上と昌輝兄上だった。
また悪夢を思い出してしまい、遂には息が出来なくなり、床に蹲る。
ひゅうひゅうと息を吐いて床に倒れて、瞳からほろほろと涙が溢れて止まらない。
「…くる、し…」
「源五郎、源五郎!?」
「源五郎?何があったのですか、父上、兄上」
「退け、お前達。信綱、着物を着替えて手伝え。昌輝、湯を沸かせ」
「は、直ぐに」
「は、はい」
逞しい腕に抱き上げられて、背中をぽんぽんと優しく支えられて薄目を開けた。
父上が私を抱き抱えて広間を出た。
それから父上が私に何をしてくれたのかは覚えていないけれど、父上の腕の中で息が出来るようになり、すうすうと浅く息を吐いていた。
父上が私を胸に抱き、背中を大きな手で優しく擦りながら屋敷の庭を歩いていた。
「怖い夢を見たのか」
「…、は、い…」
「落ち着いたか?話してみなさい」
「でも…」
「悪夢は秘めてはならぬ。これはわしの爺が言うておってな。吉夢は吉が逃げてしまうから人に話してはならぬ。だが、悪夢は人に話さなくては、夢を見た者に取り憑いて正夢にしてしまう」
「ぜ、絶対に、嫌です…っ!」
「うむ。ならば話してみよ。わしが聞いてやろう」
「でも、でも、父上に、悪い夢が移ったりしないのですか…?」
「このままではお前に取り憑いてしまうだろう。源五郎、お前はまだまだ幼い。体は元より心が幼い。悪夢がお前を殺してしまうかもしれぬ」
「!」
「言葉にしてしまえば、忘れてしまえる。ほら、可愛い子だ。聞かせてごらん」
頭や頬を撫でられて、咳をしながら父上を見上げる。
私を撫でるその御手はいつも傷だらけだった。
父上はいつも戦ってばかりだ。
今日とて父上が戦場から帰り、嬉しくて嬉しくて父上の腕の中で眠っていたのに、神様は随分と酷いことをする。
きっと私がいい子じゃないから、神様が罰を与えたのかもしれない。
そう思った事を父上に伝えると、父上の瞳が潤んで私の事を強く抱き締めた。
「ち、ちちうえ、くるしい」
「わしの息子は皆よく出来た子ばかりだ。信綱も、昌輝も、源五郎も、よく我慢している。我慢ばかりさせてしまった」
「ちちうえ…?」
「源五郎には懐かれていないと思った事もあった。信綱が家を守ってくれたから、わしが戦えるのだ」
「父上、痛い…?何処か痛いのですか?」
「源五郎、お前は本当にいい子だな」
額にちうと唇を寄せられくすぐったくて微笑むと、可愛い、いい子だと言って父上が私を抱き締めてくれた。
父上に優しく撫でられて、ざわざわとしていた心が落ち着いてきた。
私を抱いて父上は縁側に座り、向かい合わせに父上の胸に埋まる。
源五郎と優しく名を呼ばれて、ぽつりぽつりと夢で見た内容を吐き出した。
言葉に吐き出していたら、徐々にその夢の内容を思い出せなくなってしまった。
うとうととしていると、私を撫でている手が増えている事に気付いて目を細めた。
父上と同じくらいの大きな手。信綱兄上だ。
「…信綱兄上…」
「ああ、起こしてしまったかな」
「ううん…。お着物、汚してしまいました…。申し訳ありません」
「そんな事は気にしなくていいんだ。…父上、落ち着きましたか」
「ああ。随分、怖い夢を見てしまったようだ。源五郎はまだ四つだ。四つで受け流せる内容ではなかった」
「内容は、聞いておりました。それ程までに、想ってくれていたのですね」
「源五郎がこれほどまでに怖い夢と言うのだ。それ程までにお前達を慕っているのだろう」
「父上も、信綱兄上も、昌輝兄上も大好きです…。居なくなっちゃいや」
「ああ、無論だとも」
「居なくなったりしないよ」
「ひとりは、いやです…」
「お前をひとりぼっちになんてさせないよ。ずっとずっと、わしが守ってやるからな」
信綱兄上が私の頬を撫でた。
優しくて大きな手に擦り寄ると、信綱兄上が頬に唇を寄せてくれた。
「源五郎は優しい子です。いつも我等の顔色を伺い、遠慮をして我慢をして、空気を読みすぎてしまう」
「上手く吐き出させてやれば良いのだが」
「なら、わしが聞きますよ。なあ、源五郎」
「昌輝兄上」
湯が沸き、今は少し冷ましていると昌輝兄上が父上に報告にやってきた。
父上のお膝から下りて座ると、昌輝兄上が隣に座って何でも聞いてやるからなって私の頭を撫でてくれた。
「お前の兄は、信綱兄上だけではない」
「昌輝兄上」
「源五郎が辛い時は、傍に居るからな」
「ほんとう?」
「わしとて、お前の兄だ」
昌輝兄上も私の頭を撫でてくれるから、父上にも信綱兄上の手にも甘えて擦り寄る。
父上と兄上達が私の不安や動揺を少しずつ拭い去ってくれた。
父上に抱き上げられて、囲炉裏に座る。
昌輝兄上が郷で採れた林檎をすりおろし、
信綱兄上が冷ましたお湯を器に移して林檎をとかして、私が大好きなすりおろし林檎の飲み物を作ってくれた。
「これなら飲めるだろう?源五郎が好きな林檎だ」
「りんご」
私がよく眠れるようにと、昌輝兄上の思い付きで作ってくれたらしい。
父上が器を受け取り、私も器に手を添える。
小さな手で父上の大きな手に触れると、空いた片手で私の額の髪をかき上げて額に唇が触れた。
一口飲んで、ほうと吐息を吐く。
蜂蜜が入っていて甘くて、とても美味しい。
貴重な蜂蜜なのにと眉を下げると、その眉を父上がなぞった。
父上も信綱兄上も昌輝兄上も食い入るように私を見下ろしていた。
心配で堪らない、そうお顔に書いてあるかのようで小首を傾げて微笑む。
林檎が甘くて美味しい。
私の笑顔を見たからか、父上も兄上達も深い溜息を吐いて安堵したような表情を見せていた。
もう、怖い夢のことは思い出せなくなってしまった。
手を添えて、父上にそっと器を差し出す。
父上は小首を傾げていたが、父上も兄上もどうぞと私が言うと首を横に振る。
「源五郎が好きな物だろう。遠慮しないで全部おあがり」
「でも、私だけなんて」
「では、ひと口ずつ貰おうかな。あとはおあがり」
「はい」
父上が一口飲んでくれて、にこりと微笑む。
信綱兄上に差し出すと、信綱兄上は申し訳なさそうに少しだけ飲んでくれた。
昌輝兄上にも差し出すと、ひと口だけ飲んだ後むにむにと頬を摘まれる。
「むう、あにうえ」
「本当に、源五郎は可愛いな」
「かわいくないです」
むすっと頬を膨らませていると、信綱兄上にその頬を撫でられる。
信綱兄上は昌輝兄上の頭もわしわしと撫でて、父上の背中に頭を乗せていた。
「信綱兄上?」
「もう大事なかろう、信綱」
「…は。源五郎が、神様に取られてしまうかと思いました」
「…わしも肝が冷えた。まさか過呼吸になってしまうとは。暫くはよくよく見てやらねば…」
「父上が目の届かぬ時はわしがよくよく見ておきます。昌輝も頼む」
「勿論だ、兄上」
「源五郎は、源五郎は、何処にも行きませぬ」
「ああ、何処にも行かせるものか。神だとて赦しはしない」
父上も兄上達も何処か思い詰めたお顔をなされていたので、父上に振り向いて胸元に埋まる。
私は何処にも行かないともう一度言うと、そうだなと、父上が私の頬を撫でた。
すりおろし林檎を飲み終わり、瞼を擦っていると父上が私を胸に抱いてくれた。
囲炉裏を囲んで綿入れに包み横になっていたのだが、信綱兄上と昌輝兄上がきちんと布団を敷いてくれた。
「今日はきちんと布団で寝ようと思ってな」
「一番新しい布団は源五郎のだからな」
「えっ、や、いやです」
「何故だ?ふかふかだぞ?」
「父上や兄上を差し置いて、そんなこと…、源五郎はできないです」
「源五郎がいい子だから、いいんだよ」
「なら、一緒に寝たいです」
「ふ、男四人でむさ苦しい事だな」
父上はそう言うが、私の提案を拒みはしなかった。
信綱兄上と昌輝兄上が四組あった布団を二組に減らし、その敷布団を重ねて敷いた為に敷布団は全てふかふかになった。
小さい私と昌輝兄上が真ん中に横になり、私の隣には信綱兄上が横になり、昌輝兄上の隣には父上が横になった。
父上は私と昌輝兄上、信綱兄上の頭も撫でると、四人分の布団を掛けてくれた。
「もう悪い夢は見ないだろう」
さあ、おやすみ。
そう言って父上が灯りを落とした。
ふかふかの布団に埋まり目を閉じていると、昌輝兄上がぎゅうと私に抱き着いて、信綱兄上が腕枕をしてくれた。
二人の兄上に甘えて擦り寄ると、私が眠るまで父上が頭を撫でてくれた。
目の前に広がる無惨な赤い景色を見て、子供の頃を思い出した。
何処にも行かないと言っていた私は結局、真田の郷を離れて人質となり、奥近習となり戦場に立った。
傷だらけだったけれど、優しくて大きな手で撫でてくれた父上は既に亡い。
三枝の、守友兄様。
内藤昌豊様に、原昌胤様。
馬場信房様、山県昌景様。
昌次。
皆、死んでしまった。皆、皆、殺されてしまった。
信綱兄上は、勝頼様を頼む、真田を頼むと青江の大太刀を手にして、別れ際に私の頬を撫でて行った。
「信綱兄上、信綱兄上…、信綱、あにうえ…」
震える声でそう呼んでも、赤い景色の中に生者はいない。
死屍の中に見覚えのある血染めの陣羽織が見えて胸が詰まり、息が出来なくなった。
きっと、違う。
私の信綱兄上は、そんな、そんな。
未だに続く銃声に我に帰るも、昌輝兄上の姿は既に私の傍を離れていた。
お前の兄は信綱兄上だけではない。
子供の頃から言い聞かされた言葉を昌輝兄上は呟いていた。
「昌輝兄上…っ」
行かないで、傍にいてと声を振り絞り昌輝兄上を引き留めた。
もう傍に居てやれそうにない、ごめんな源五郎と昌輝兄上は戦場へ戻っていった。
「真田信綱殿、真田昌輝殿、御討死!」
間もなくして、そう耳に聞こえた。
目の前の赤い景色が歪む。
「兄上、あにうえ、あにうえぇ…」
子供の頃のように兄達の名を呼んでも、もう私を撫でる優しくて大きな手はなかった。