弟がいる。
二人とも歳が離れているので、親代わりに子守りをした事もあった。
上の弟の昌輝は自由奔放で、気が付けば居なくなるので目が離せない。
だが、下の弟の昌幸が生まれると少しは大人しくなったようだ。
下の弟の昌幸は、どちらかと言うと大人しい。
さすがに十も歳が離れていると、自分も親になったような考えを持つようになった。
わしも昌輝も小さな弟が可愛くて仕方ない。
昌幸は七つを数える時に武田に人質に出された。
幼い末の弟だ。
真田の為とはいえ、わしも昌輝も泣いて別れを惜しんだし、父上とて苦渋の決断であったのだろう。
父上は昌幸と離れる間際までずっと、昌幸と手を繋いでいた。
その昌幸が今ではお館様の奥近習となり、初陣を終えた。
川中島での初陣は、昌幸にとって辛いものであっただろう。
勝頼様も肩を落とす昌幸を案じておられた。
勝頼様は昌幸と仲が良く、何かと目をかけていただいた。
我等は躑躅ヶ崎館での人質生活を案じていたが、勝頼様御自身から昌幸を好いているとお聞きした。
存外、心配をし過ぎだったのやもしれぬ。
館に呼ばれる度に昌幸を訪ねては抱き上げて手を繋ぎ、少しずつ成長している弟に目を細めた。
昌幸はもはや人質ではなく家臣であるとして、真田に戻ってくることになった。
お館様、そして勝頼様の口添えであろう。
傷心といった様子の昌幸であったが、真田の地に入ると嬉しそうに笑っていた。
「おかえり、昌幸」
「おかえり」
「信綱兄上、昌輝兄上」
美丈夫になったと思う。
どうやら身丈は抜かれなかったようだ。
我等を目にして口元を緩ませ、昌幸は深く頭を下げた。
「恥ずかしながらこの昌幸、真田に戻って参りました」
「何が恥であるものか。おかえり、昌幸」
「ずっとこうしたかったぞ、昌幸」
「ま、昌輝兄上」
「む、抜け駆けは許さんぞ」
「信綱兄上まで」
勢いのままに昌輝が昌幸を抱き締めるものだから、二人まとめて肩を抱き寄せた。
漸く兄弟が揃った。
思わず感極まり視界が歪む。
「の、信綱兄上、どうされたのですか」
「いや…、まこと、嬉しくてな。すまぬ。これは隠せそうにない」
「兄上…」
「大きくなったな、昌幸」
「おう、今日は飲もう昌幸」
「…はい。是非」
兄弟だけでの宴を約束し、一先ず疲れているだろうと荷物を持ってやり部屋に通した。
広間にて改めて家族で向き直り、父上も揃って昌幸の帰宅に顔を合わせた。
昌幸は父上に菜の花を手土産にしていた。
懐かしいなと父上は微笑み、昌幸の頬や肩を撫でて笑っていた。
そして、昌幸も笑っていた。
「昌幸と二人にしてくれるか」
「は…。されど昌幸も疲れております。父上」
「なに。ただ、実家に帰ってきた末っ子を甘やかせたいだけよ」
「左様なれば、承知致しました」
「また後でな、昌幸」
「父上も兄上達も、どう為さったのですか」
「どうも何もない。昌幸が帰ってきた事がただただ嬉しいのよ」
「…は」
我等三人に頭やら肩やら背やら撫でられて、昌幸はくしゃくしゃにされている。
綺麗に伸ばされた髪が台無しではないか。
見れば手入れをしているようだし、手櫛で直してやった。
今は席を外し、昌輝の肩を叩いた。
見れば昌輝は歩きながら何か思案しているようだ。
「どうした」
「兄上、昌幸の好きなものは何だろう」
「…昌幸は何が好きだろうな」
「せっかくですから今日は昌幸の好物にしてやろうと思いましたが」
「兄であるのに、昌幸の事を何も知らぬ」
「左様。困りましたな」
二人で溜息を吐き、とりあえず子供の頃によく食べていた物を作ってやろうと言うことで落ち着いた。
躑躅ヶ崎館で贅沢な暮らしをしていた訳ではあるまい。
稽古も手習いも武田の流儀で躾られたのだろう。
立派な武士になったとは思うが、昌幸は真田を知る前に物心を武田に取られてしまった。
元服したとて、今でも昌幸が可愛くて仕方ない。
そして昌幸に何処か寂しさを感じていた。
兄弟だけの宴の準備は昌輝に任せた。
部屋に戻るかと廊下を歩いていたところ、父上から解放されたのか、昌幸が縁側でひとりぽつねんと座っていた。
近くの山々や空を見ているのか、ずっと遠くを見ている。
冷たい風が頬を撫でて、昌幸の髪を靡かせた。
わしに気付いたのか、昌幸が目を細めてわしを見上げていた。
目元が赤いのは気付かなかった事にしてやろう。
頬を撫でてやるとふわふわと白黒の髪が流れた。
「綺麗になったな」
「何を仰る」
「髪の話だ。昔は嫌っていただろうに」
「…この髪を好きだと言う、変わった方が居るので」
「ほう。…ふむ、勝頼様か?」
「…よく、目にかけて頂いております。私等が奥近習を勤められているのも勝頼様が居たからこそです」
「お館様は、昌幸を褒めておられた。自分の息子のように可愛がっておいでだったとお聞きしている」
「…恐れながら」
「此処は寒い。真田は躑躅ヶ崎館より寒いぞ」
「…そうでしたね。寒いです」
「ほら、とりあえず中に入れ」
昌幸を腕の中に入れて上着を掛けた。
背を押して部屋に通し、茶でも用意するかと席を立とうとすると昌幸がわしの上着に埋もれていた。
どうやら体格差があり過ぎるらしい。
試しに上着をきちんと着せてみると、昌幸の手が出なかった。
「昌幸は可愛いな」
「…む、何ですか急に」
「いや何、大きくなったと思ったが」
「信綱兄上には敵いません」
「とりあえず着ておけ。急に冷えたからな」
「…真田の、兄上の匂いがします」
わしの上着に顔を埋めて、嬉しそうにほくそ笑む。
衝動的に力強く抱き締めると、昌幸が慌ててわしを見上げた。
「…この」
「ど、どうなされたのですか、兄上」
「可愛い奴め」
「何を仰る」
昌幸の頬を撫でてやり解放してやった。
上着に包まり昌幸は大人しく座布団に座った。
部屋の戸を閉めた。昌幸に当たる風は入らなくなっただろう。
「…皆、なかなか私を一人にしてくれませぬ」
「そりゃあな。やっと帰ってきた弟だ」
「もう帰りの時を案じる必要もないのです。そう構われずとも、私は何処にも行きませぬ」
「…そうだな。此処が昌幸の家だ。お前の居場所だ」
「はい。何もかも懐かしいです…」
「一人になりたいのなら、遠慮するよう皆に伝えるが」
「…お手隙でしたら、兄上とお話がしたいと思っておりました」
「おう。付き合ってやろう」
「ありがとうございます。信綱兄上」
わしが隣に座ったのを見て、昌幸がそっと茶の支度をした。
手際が良いし、作法が綺麗だ。
わしは武骨者故にそういった事は出来ん。
手習いを受けたのだろう。昌幸の所作は綺麗だった。
「どうぞ、兄上」
「…大人になったな」
「ええ、まあ」
「大きくなったな…」
「父上も兄上も、そればかりですね」
照れくさくて、恥ずかしいのだろう。
昌幸は頬を染めて下を向いていた。
それから子供の頃の話をしたり、郷の話をしたり、基本的にはわしが話していた。
躑躅ヶ崎館の事は昌幸が話した。
厳しく育てられたようだが、お館様には目をかけて頂いたようで不自由はしなかったらしい。
話の節々に勝頼様の名が出てくる。
勝頼様の話の時の昌幸は、心做しか頬を染めて目線を伏せる。
知己の友、主従であるとも聞いていたがそれにしては随分と熱っぽく話しおる。
「昌幸は、勝頼様を好いておるのか」
「…何ですか、突然」
「どうなんだ」
武田家の、お館様の趣好は存じている。
昌幸と仲が良い土屋昌次などはそうだと言うではないか。
お館様の戯れに昌幸は…。それとも、勝頼様なのか。
昌幸が嫌だと
思っている事を強いられているのなら助けてやりたい。
「…勝頼様の事は、その、お慕いしております」
「そうか」
「何か危惧でも」
「昌幸が好きで傍に居るのなら良い。昌幸が強いられていないのなら良いのだ」
「…兄上にお話しするのも可笑しい話ですが、その」
「どうした?何でも聞いてやるぞ」
「…ありがとうございます。兄上」
どうにもやはり寒いか。
躑躅ヶ崎館と真田とでは、真田の方が寒い。わしの上着を着てはいたが、昌幸は震えていた。
膝を叩いて昌幸に傍に来るように促し、わしの前に横向きに座らせ肩を抱いた。
おずおずと遠慮がちにしていたが、腕の中に収めてしまえば大人しくなった。
どうやら温かいらしい。
そのまま、暫し昌幸の話を聞いた。
誰にも話せなくて誰かに話したかった話と前置き、昌幸は頬を染めながら話した。
「…恐れながら、勝頼様と恋仲にあります」
「…、……、…ほう」
「…引かれましたか。不出来な弟で申し訳ございません…。やはり、私には分不相応なお話です。勝頼様には私からお話しして」
「待て待て。飛躍し過ぎだ。驚いただけだ。そうか。だからか」
「…だから、とは」
「勝頼様を本当にお慕いしているのだな」
「…はい」
あの感情に軽薄な昌幸が頬を染めて言うのだ。その思いに偽りはなかろう。
あの小さな弟が知らぬ間に人のものになっていた事に驚いたが、同時に少し寂しくも思う。
昌幸はもうあの頃の小さな子供ではない。
昌幸は筆豆である。
月に何通か文のやり取りをしていた。荷物の中に文箱を見つけた。文箱が増えているようだ。
「昌幸はよく文をくれたな」
「はい。兄上のは此処に」
「これは?」
「それは父上です。昌輝兄上のも」
「宛先で文箱を分けているのだな」
「此方はお館様からです」
「お館様は流石に達筆であられる」
「はい」
「それは勝頼様か」
「はい…」
「…ふ、勝頼様が羨ましいな」
「な、何を仰る」
話を聞けば、躑躅ヶ崎館にて昌幸に手を尽くしてくれたのはお館様よりも勝頼様であったのだろう。
ちらりと勝頼様からの最近の手紙を除き見れば、真田へ帰る昌幸を贈る言葉と、昌幸を想う言葉に溢れていた。
勝頼様もなかなか、昌幸に執心であられる。
足音が聞こえて顔を上げると、昌輝が我等を呼びに来たところであった。
「おう、昌輝」
「昌輝兄上」
「む、わしは真面目に準備をしていたというのに昌幸を一人占めとは!」
「そういう訳では」
「否、一人占めさせてもらっている」
「の…信綱兄上?」
「狡いぞ兄上」
「昌幸が寒がり故に仕方あるまい」
「躑躅ヶ崎より郷は寒かろう、昌幸」
「ま、昌輝兄上まで…、もう大丈夫ですから」
「はは、大きくなっても昌幸は小さいな」
「む…、余計なお世話です」
兄弟で揃って話して笑えたのはいつぶりか。
昌幸を真ん中に座らせ、暫し三人で話していたが父上の呼ぶ声をお聞きし、揃って襟を正して卓についた。
遅いぞと父上は叱咤されたが、お顔は朗らかでいらした。
「父上はやはり、我等が父上で在られる」
「何だ。藪から棒に」
「どういう意味ですか、兄上」
「昌幸が帰ってくると、いの一番に喜んでおられたのは父上であったよ」
「信綱」
「そうなのですか」
「おうとも。昌幸の部屋はそのままにしておいただろう?あれは父上がな」
「昌輝」
「良いでしょう。本当の事なのですから」
「昌幸がいつ帰ってきてもいいようにな、わしと昌輝と父上で、昌幸の部屋は綺麗にしておいただろう?」
「…そう、でしたか」
「…苦労を掛けたな、昌幸」
「…身に余るお言葉ばかりで恐縮です…父上、兄上」
家族が揃った。
わしも昌輝も、父上ですら昌幸を見ている。
真田家は、昌幸が揃って漸く真田家なのだ。
昌幸の鼻がすんと音を立てた。目元を覆い口元を隠している。
無理もない。わしや昌輝、父上とて昌幸が帰ると聞いて涙を堪えた。
「…ありがとう、ありがとうございます…、ただいま」
「おかえり」
「おかえり、昌幸」
「ふふ、おかえり」
今宵は昌幸が主役である。
わしや昌輝が特段に構って、父上すら昌幸の頭を撫でられた。
父上は一献だけ付き合い、程々にしろと言って父上は下がった。
昌幸の部屋に移動し、用意した調度品やら着物やらを見せた。
兄弟での話は尽きない。
昌幸の好きなこと、好きな物、逆に嫌いなものなど根掘り葉掘り聞いた。
酒には強くないのか、昌幸はわしの胸に背を預けて目を閉じかけていた。
「子供の頃みたいだな」
「昌幸がいつも最初に寝てしまうな」
「わしらが寝ないなら寝ないと無理をして、結局寝てしまう」
「…もう子供では…」
「もう子供とは思っとらん」
「だが、お前はずっとわしの弟だからな。何処に住もうと、名が変わろうと、昌幸はわしの弟だ」
「はい…、信綱兄上」
「わしを忘れていないか」
「おう、もう一人居たわ」
「昌輝兄上」
「よしよし、疲れたか。もう横になれ」
「兄上が起きておられるのに」
「はは、じゃあ今日は皆で一緒に寝ようか昌幸」
まさに子供の頃に戻ったように、昌幸はうつらうつらと目を擦りながら、わしと昌輝を見上げていた。
疲労もあっただろうに、昌幸はよく頑張っている。
良い男に育ったものだと昌幸を横に抱き上げてやり、昌輝が布団を敷いた。
昌幸を真ん中にして男三人、川の字に寝る。
流石に横になると昌幸は直ぐに寝入ってしまった。
眉間に皺を寄せるようになったのかとか、随分髪が伸びたんだなとか、昌輝と昌幸を見守りながら我等もその日を終えた。
昌幸が郷に慣れた頃、勝頼様が参られた。
今日は泊まられるとの事らしい。
昌幸からあの話を聞いてから勝頼様に会うのは初めてだ。
わしから何か言った方が良いのかとも思えたが、勝頼様を見る昌幸の眼を見てしまえば何も言えなくなった。
昌幸のそのような瞳は初めて見る。
「昌幸」
「勝頼様…」
「勝頼様。お久しゅうございます」
「おお、信綱。久しいな」
「は…。勝頼様さえよろしければ、今宵は昌幸の部屋に泊まっては如何か」
「信綱兄上?」
「良いのか。昌幸はどうだろう」
「…勝頼様がよろしければ」
「では、決まりだな」
勝頼様は昌幸に会いに来たのだ。
このような時は我等は控えるべきであろう。
昌幸の部屋を勧めたのも、その方が傍に居れるだろう、色々話したい事もあろうと思ったからだ。
何より、わしは知ってしまっている。
もしかしなくとも、昌幸に巻き込まれてしまった。
勝頼様のお相手は昌幸に任せて、昌輝と二人、仲睦まじく隣合って座る勝頼様と昌幸の背中を見ていた。
勝頼様は身振り手振りを使って何やら楽しげに話している。
昌幸は時折相槌を打ち、勝頼様の声に耳を傾けていた。
「仲睦まじき事よな、兄上」
「うーむ…」
「何だ」
「勝頼様も弟のように思えていたが、見方が変わるとどうにも複雑だな」
「見方が変わるようなことがあったのか」
「…うむ。どうやら昌幸の言葉は誠であるらしい」
「ん…!?ん??えっ?!」
暫し二人の背中を見ていた我等であったが、不意に勝頼様の顔が昌幸に重なった。
昌幸が抗う事はなかったが、勝頼様の顔が離れた後に諸手で顔を隠していた。
勝頼様は嬉しそうに笑っている。
不意に勝頼様が昌幸に口付けたのだ。
「説明不要であろう。そういう事だ」
「昌幸は、あのような事を強いられているのですか」
「否。そう見えるか」
「昌幸のあんな顔は、見た事がない」
「取られてしまったな」
「兄上は存外、昌幸の事が好きですな」
「弟としてだ。あの小さな弟がと思うとな。寂しくもある」
「昌幸が嫁に出た訳でもなかろうに」
頬や耳まで赤く染めて、昌幸は恥ずかしそうに笑っていた。
唇の動きから、お会いしとうございました、と昌幸が語った事が読み取れる。
昌幸はまこと、勝頼様をお慕いしているようだ。
「無粋である。行くぞ、昌輝」
「おう。そうさなぁ、わしは人払いをしておいてやろう」
「うむ。それがいい」
家族以外に弟が想われている。幸せな事ではないか。
二人の逢瀬の様子を見てしまった事を内心謝罪し、昌輝と共にその場を去った。
夕餉の時分になったが、昌幸と勝頼様が来ない。
部屋に居るのだろうが、何分わしが人払いをしている為、呼びにも行けない。
昌輝と視線を交わし、溜息を吐いて立ち上がった。
「兄上」
「昌幸と勝頼様を呼んでこよう」
「そうか。では、勝頼様には悪いが先に戴こう」
「そうして下され、父上。冷めてしまいますからな」
今夜は栗のおこわである。
確か、栗は勝頼様の好物ではなかったか。
勝頼様の好物であれば、昌幸も喜ぶだろう。
昌幸の部屋は障子が少し空いていた。
人の気配はする。
「昌幸、勝頼さ…、…」
声を掛け、障子に開けようとして手が止まった。
勝頼様の膝の上に座り昌幸は背を向けて気付いていないが、勝頼様と目が合った。
昌幸のくぐもる声と、耳に響く水音、二人の乱れた着物を見れば何をしているのかは解る。
「…かつより、さま…?」
「ん?…ふふ」
昌幸を抱き寄せる勝頼様と目が合った。
勝頼様はふ…と笑い、人差し指を立てて唇に押し当てる。
秘密だと、言うことであろう。
その後、昌幸の髪を撫でて唇を合わせていた。
そっと開いていた障子を閉めて立ち去る。
こうも目の当たりに見てしまうとは思わなかった。
昌幸の脚に伝う其れは、勝頼様のものか。
昌幸は、文字通り勝頼様のものであった。
父上や昌輝の元に戻り、どかりと座って溜息を吐く。
酒を一息で一献飲み干し、再び溜息を吐く。
わしの様子を見て、父上が首を傾げた。
「如何した」
「昌幸と勝頼様には後程、夜食を持って行きます」
「取り込み中であったか」
「今は、手が離せぬようで」
「ふむ。せっかくだ。夜食は温め直してやりなさい。食事は温かい方が良い」
「はい」
何とも言葉にし難い心境である。
小さな弟を、弟のように思っていた勝頼様に取られてしまったような。
取られたも何もないのだが、何とも悩ましい。
あの様子では、勝頼様は後程わしの元に来るだろう。
一先ず絶対に今は昌幸の部屋に行くなと家の者に釘を刺し、今度は茶を飲んだ。
皆が下がり静かになった居間に足音が聞こえた。
一人分の足音に昌幸かと思ったが、顔を覗かせたのは勝頼様であった。
「信綱。すまぬ。わざわざ呼びに来てくれたのだろう」
「勝頼様」
「夕餉は未だあるだろうか。昌幸の分も取りに来たのだが」
「は…。勝頼様、その、申し訳ござらん」
「私こそ、何も伝えてなかった」
「…昌幸から聞いてはおりました」
「そうか」
「昌幸は」
「今は横になっている。起きてはいるが、今の昌幸を見せたくはない」
事後であるという事なのだろう。
昌幸は立てないのか。何にせよ、今昌幸の顔は見れそうにない。
今では、目が合ったのが昌幸でなくて良かったとも思えた。
温め直しておいた食事を二人分、盆に乗せた。
勝頼様に運ばせてしまうことは申し訳ないが、今はわしが行くべきではない。
栗のおこわを見つけるやいなや、勝頼様が笑った。
相変わらず、勝頼様は勝頼様か。
「昌幸の事を、好いておられるのですな」
「ああ。昌幸の事が一等好きだ。愛していると断言する」
「左様であられるか。昌幸が嬉しそうに勝頼様の事を話しておりました」
「昌幸は、お前達兄弟の事が大好きだからな。信綱の話をよく聞く」
「左様でござったか」
「私は嫉妬深いぞ、信綱」
「昌幸は弟です。大切な家族として見守っております。勝頼様のような感情は持ち合わせておりませぬ」
「そうか。昌幸がいざ頼るのは信綱だ。子供の頃からそれが羨ましかった」
「ふ、昌幸に頼られたいのですか」
よく微笑まれる方であるが、この時ばかりは勝頼様の目が笑っていない。
頭を下げると、勝頼様は再びにこやかに笑われた。
「わしがお仕えするのは武田です。昌幸もそのつもりでしょう」
「そうかな」
「昌幸が心に決めているのは、勝頼様個人にかもしれませぬ」
「そうか。私は頼りないからな。いつも臣下に、昌幸に助けられてばかりだ」
「昌幸にとって、それが本望でありましょう。勝頼様の傍にいる昌幸は、わしも知らぬ昌幸でありました」
「当たり前だ。私の昌幸だぞ?」
「昌幸をお願い致します」
「おう」
これは、認知した事になるだろうか。
知らぬ間に妬かれていたが、勝頼様も存外可愛らしい事を仰る。
随分可愛らしい悋気をお持ちだ。
勝頼様に恨まれるのは御免こうむるが、勝頼様の本心も聞けた。
現に、主従でありながら勝頼様が昌幸の世話を焼いているのだ。
昌幸はとても愛されているのだろう。それならば良い。
昌幸は勝頼様にお任せしようと決めたものの、これだけは言っておこうと勝頼様に向き直る。
「勝頼様」
「ん?」
「わしの弟を泣かせたら、真田は容赦は致しませぬ」
「お、おう。待て、真田が相手になるのか?」
「父上も、昌輝も昌幸には甘い」
「昌幸は真田に愛されているな」
「目に入れても痛くない弟ゆえ」
「…信綱、お前も大概だぞ?」
わしは本当の事しか言っていない。
勝頼様に苦笑されつつ、その背を押した。
昌幸が待っているのだろう。
「ほら、昌幸を一人にするのですか」
「そうであった。おやすみ」
「おやすみなさいませ」
勝頼様の背を見送り、部屋に下がった。
あの日から、勝頼様に呼び止められる事が多くなった。
話す事は凡そ昌幸の事だ。
昌幸も相変わらず、わしの傍に居たがる。
そして痴話喧嘩の仲裁に割って入る事もしばしばである。
わしは二人の兄として見守っているだけなのだが、どうにも懐かれてしまった。
昌幸の幸せが勝頼様であるのなら、それで良い。
横に座る小さな弟の頭を撫でて笑った。
兄とは、弟が可愛いものだ。