はなあらしのたとえもあるさ

頭上の桜がぽつりぽつりと咲いていた。
甲府の春はもう近いだろう。
そして、そろそろ来る頃だ。

「やれやれ、漸く着いたか」
『昌幸!』
「随分、時間が掛かってしまった。歳だな」

きっと、いつか会えなくなる。
昌幸とて、いずれ。
そうは思うも、毎年顔を見せてくれる事に今すぐ抱き締めたい衝動に駆られるが、私は何もしてやれない。


白と黒の髪が春風に揺れて、目にしたその姿に目を細める。
昌幸は良い老け方をした。
武田家中でも一番歳下で可愛がられていた昌幸が、今では随分良い男になった。
だが、表情はいつも暗かった。

傍に歩み寄り微笑むも、目が合う事はない。
昌幸の表情は固く、眉間に刻まれた皺は深い。
元々、表情に出さぬ奴であったが、年々感情が薄れているように思える。
眉を下げて昌幸を見つめた。

毎年こうして私の元に来てくれるが、供も付けずいつも一人だ。
此処を管理している民の話を掻い摘んで聞いたが、甲府は戦火に巻き込まれつつある。
それに、昌幸が此処に居ては上田の方が危ういのではないか。

「お久しゅうございまする」
『ああ、昌幸』

白と黒の髪は美しく伸ばされていて、未だ手入れをしてくれているのだろうという事が解る。
私が好きだと言った髪は、私の好きな形のまま、伸ばしてくれた。
その艶やかな髪に手を伸ばせば、昌幸は目を閉じて頭を下げた。

「今年も、何とか間に合いました」
『昌幸、無理をしているのではないか。今、お前は此処に居てはならぬのではないか』
「花見に行くのだと呆けた爺の振りをすれば、国境も容易いものです。幸村には怒られましたが、あれも随分頼もしくなりました」
『幸村か。きっと大きくなっているのだろうな。立派な若武者になっている事だろう。松や信之も息災だろうか』
「…隣に座らせて頂きます」
『ああ、いいぞ。桜の下においで昌幸』

私は此処から動けない。
今日は良い天気であったが、風がある。
春一番もそろそろであろう。
昌幸が寒くないようにせめて、桜の下に座るよう枝を除けた。
昌幸は気付いていないが、此方の思惑通りの場所に座ってくれたので胸を撫で下ろした。
昌幸は暫し、頭上の桜を眺めて目を細めていた。
何も言わず、何もせず、ただ、桜を見ていた。





甲府から上田へは私がよく通っていた旅路だが、今は年に一度とはいえ昌幸が通ってくれている。
年に一度でも、昌幸は私に会いに来てくれた。
酷い別れ方をしたのに、昌幸はずっと。

「…甲府は温かですな」
『未だ上田は寒いだろう』
「ただでさえ冷え性であるのに、歳のせいで何とも。上田は寒いです」
『寒くないか、昌幸。体は大丈夫なのか』
「…さて、今年も一献、付き合っていただきます」
『ああ、勿論だとも』

日が傾いてきた。
胸元から出した杯を二つ、手頃な石の上に置き、昌幸は其れに酒を注いだ。
日が暮れる。暮れゆく日を見つめながら、昌幸は杯を飲み干した。

私はその杯を手にする事が出来ない。
桜の花弁をはらりと一枚、なみなみ注がれた杯に落とした。
はっとして昌幸が頭上の桜を見上げた。

「ふ、まさか」

寂しそうに笑う昌幸を抱き締めたくて堪らない。
私から離した手だ。今更また手を携えたい等、虫が良すぎる。
これは罰なのだろう。

昌幸の瞳に暮れゆく夕日が映り、紅く光って燃えているようだ。
目元に深く刻まれた皺に年月を感じた。
私の目の届かぬところで戦って傷付いて、奪い騙してそれでも生きてきたのだろう。

私は何よりも大切なものを護れた。
ただ、その隣に私は居られなかった。それだけの事だ。





ぽつ、ぽつと、水音が聞こえる。
徐々に雨粒が大きくなった。風も出ている。
風が生あたたかい。富士の山にも雲がかかっている。春の嵐の予兆であろう。

『昌幸、雨だ』
「…。」
『昌幸、昌幸、早く』
「…勝頼様」

昌幸が小さく声を漏らした。
苦しそうに私の名を呼んでいる。
間もなく雨は本降りになり、辺り一面の景色を冷やした。
動こうとしない昌幸に寄り添うと、桜の幹に背を預けて昌幸は天を仰いだ。

「ひとつ、吐き出させて下さい」
『昌幸?』
「…信之が、徳川につきました」
『信之が』
「天は二つに違え、天下を賭けた大戦となるでしょう。信之は徳川へ、わしと幸村は、三成につきました」
『…そんな、事が』
「徳川が勝てば、信之は真田を護ってくれるでしょう。三成が勝っても、幸村が居ます」
『昌幸…?』
「真田を守る。その思いは子らに託そうと思います。其れさえ渡さば、もうわしには戦う理由がありません。太平だの武士の意地だの、左様なものには興味がありませぬ」
『昌幸』
「…ただ、あなたに生きていて欲しかった」

昌幸の目元を伝うのはきっと雨ではないのだろう。
目元を拭うも、触れられない。
ぎりっと唇を噛み締めるも、もはや何も痛みを感じることもなかった。
生と死が、私達を分けていた。

私は昌幸を、真田を守れはしたが、その心には一生の傷を負わせてしまった。
私が守れたと思っていた事は、間違いだったのだろうか。
私の独り善がりだったのだろうか。

それももう、取り返しがつかないずいぶん昔の話。
私も随分苦悩した。苦悩した故の選択だった。きっと正解ではなかったのだと思う。
そして、たられば、たらればと、昌幸も今まで己を責めていたのではないだろうか。
天を仰ぐ昌幸の顔は雨に濡れていたが、きっと、きっと泣いている。
今では、涙も拭えやしない。

『もうお帰り、昌幸。風邪をひいてしまう』
「私はずっと、何かの為に生きてきました。…今更、自分の為になど、生きられませぬ」
『私はお前に、生きていて欲しい。それも我儘だったのか』
「私は…、何処で間違えましたか」
『昌幸、私は間違えたのだろうか』
「勝頼様」

抱き締めたいのに、触れられない。
雨で桜の花弁が散り、咲いた花も疎らになってしまった。
桜散らしの雨だったのだろう。





雨は弱まり、徐々に雲が晴れて、月が出ていた。
艶々に濡れた昌幸の髪や肌が月明かりに照らされている。

「さて…」

目元や顔を拭い、昌幸が姿勢を直してしゃんと立ち上がった。
その表情は疲弊はしていたがすっきりとしていて、目の光は消えていなかった。
昌幸は生きる事を諦めてはいない。
きっと私だけに見せてくれた弱音であり、本音であったのだろう。
それでこそ、私の真田安房守昌幸である。

「すっかり冷えました。上田に戻る前に、湯村にでも寄って参ります」
『うむ。ちゃんと体を温めるんだぞ』
「…もし、私が来年、此処に姿を見せなかったらお察し下さい。今度は私があなたを待たせるつもりです」
『おう。甘んじて受けよう。いつまでも待っているさ。待つのは得意な方だ』
「…何、そう長く待たせるつもりもございませぬ故」
『お前はまた、そうやって』
「しからば、御免…」
『ああ』

夜風が大きく吹いて、立ち去る昌幸の背を押した。
昌幸が少しよろけて、何事だと訝しげに一度、此方を振り向く。
桜の木の下で、昌幸を見つめて手を振り目を細めた。

「よく来てくれた。必ずまた会おう、昌幸」
「………はい、勝頼様」

その目は、確かに私を見つめて見開かれていた。


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